学校に行く意味は、信用資本を稼ぐことだと思う

学校に行く意味ってなんだろうってずっと思ってた。

 

勉強なら塾やネットでできる

友達も学校に行かなくても作れる

ルールや社会性もクラブやサークルで身につく

 

そう考えると学校に行く意味なんて究極ないのではないだろうか。

別のもので代替可能なのではないだろうか。むしろ学校の外の方が得られるものが多い場合もあるのではないだろうか。

 

それでも学校に通った方がいい、というのは代替の日本人が思うことなのではないだろうか。

よくわからないけれど学校に通っていた方が何かといい、と体感的に思っている人が多いのではないだろうか

 

私たちは、学校で何を得ているのか。

なぜ私たちは、学校に行かないといけないと考えているのだろうか

 

僕はこれらの問いに次の視点から答えてみたい。

「学校に行く意味は、信用資本を稼ぐことだ」

 

信用とは

 

しん‐よう【信用】

[名](スル)
確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を信用する」
それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「信用を得る」「信用を失う」「信用の置けない人物」「店の信用に傷がつく」
現在の給付に対して、後日にその反対給付を行うことを認めること。当事者間に設定される債権債務の関係。「信用貸付」

デジタル大辞泉より

 

信用とは上のような意味を持つ言葉だ。

ざっくりと言うのならば「過去の行いから、信頼できると判断すること」だと思う。

 

学校に行く意味は、勉強したり、社会のルールを学んだり、友達を作ったりするだけではなくて、社会的な信用を得ることでもあると思う。

 

例えば高校の卒業証書は高校卒業程度の学力と社会的スキルを持っている証明になる。それはそれだけの社会的な信用を得ていると言い換えることもできる。

そして高校卒業という資格を持って、就職したり、大学に進学したりしている。これは信用という資本をキャリア(経済的資本、人的資本、関係的資本)に変換しているとも言える。

 

この国ではほとんどの人間が当たり前のように学校に行き、卒業していくので気付きにくいが、学校に行き、卒業するということは社会的な信用を得る行為でもある。

 

学校に行くことで得られる信用資本によって獲得できるものは多い

 

就職、進学に使えるのは前述した通り。学校に行って、卒業していると人間関係においても、「この人はまともな人間だ」という証明になる。

私たちは学校に行くことで「私は学校が保証した、まともな人間だ」という信用を得ているのだ。

 

 

では学校に行かなかった人はどうしているか?

学校に行き、卒業した人はそれにより信用資本を得ていることは前述した通りだ。

少なくとも現代社会はそのようなシステムとなっている。

 

では、学校に行かなかった人、行けなかった人は働いたり、人と関係を結ぶにあたってどうしたらいいのか?

おそらく、下の2つのどちらかの戦法をとっているのではないかと思う。

 

1学校に行っていた信用資本ではない、別の資本を持つ。

手取り早く言うと、「資格だったり、仕事に直結するようなスキルだったり、コミュニケーション能力や愛嬌、性格の良さなど、武器になるものを身につけよう」ということだ。

学校に行っていたという信用がない分、別の何かで稼ごうというわけだ。

 

2学校に行っていた、という信用資本より、本人のスキルなどが優先される世界を選ぶ

学校に行っていたという信用資本で入れる世界ではなく、本人のスキルや実力でどうにかなる世界に進む、というのも戦略だ。

金融や役所といった安定した企業に行くのではなく

IT、WEB、ベンチャー、職人、フリーランスなど本人の実力があれば評価されるような働き方を選ぶ、といった感じだろうか。

 

だいたいこんな戦略に落ち着くのではないだろうか。

 

 

 

結論

 

まあ、学校行かなくても人生そう大きく変わらないけれど

信用資本を稼ぐと言う意味で、行っといた方が無難だよね。

信用資本稼がなくてもなんとかなるけどね!