不登校から見る現代社会。常識の崩壊と新たな選択肢。(途中で力尽きた)

不登校は、時折本人の主体的な選択として肯定されることがある。

 

これは歴史を紐解けば、何らかの事情により学校に行かなくなった(行けなくなった)ことで、社会や親から否定され続け、傷つけられた子ども達を守るための言説である。「僕たちは学校に行けなくなったダメな人間ではなく、いじめがあったり画一的な教育を推し進める学校には行かない方が得であると判断して、行かないことを選択したんだ」と自分たちを解釈し直し、発信することで、不登校児の自尊心を守ろうとしたのである。そしてしばしば、上記の言説を通すために、学校やそれに基づく現代社会が否定され、不登校は学校に行くよりもより良い選択肢として主張された。

 

昨今、学校に行かないことは「選択肢としてアリだ」という風潮が強まっている。不登校数は毎年増加しているし、「学校に行くことよりも、本人の幸せや選択を優先してあげて」というブログや記事もたくさん見るようになった。だがこれは、学校に行くことよりも行かないことの方が良いことが多くなったから選択肢として認められたのでは無い。むしろ逆である。社会の変化の中で、学校に行った方がいい根拠がなくなりつつあり、不登校を否定できなくなっているからこそ、起こっている現象なのである。

これまでの当たり前、常識の信頼性が薄れてきているから、当たり前では無いことを否定できない。

このようなことが、社会のあちこちで起こってきている。

 

 

このことは身近な会話でも確認できる。

最近意見を述べる時、特に相手や社会に対して言いにくいことを述べる際に「私は、こう思う」と言う人、その述べる人に対して「あなたがそう思うんやったら、それでいいんじゃない?」と言う人がすごい増えたと感じる。このような会話が増えたのは、多様な価値観が認められるようになったからとか、個人が自分の考えを主張することを求められるようになったとか、そういうことだけではないと思う。これまでの常識や社会が信頼できなくなってきたから、みんな自分の考えを述べるしかないし、相手もそう答えるしかないのではないだろうか。

 

先ほどの不登校のことを例に出して考える。例えば今

「私学校に行かない。朝起きれないし家で勉強した方が集中できるし成績伸びる」

という子どもがいたとする。おそらく昔なら「甘えるな!」「学校に行かないとちゃんとした大人になれない!」と言われたんじゃ無いだろうか。しかし、学校に真面目に通って就職しても経済的に安定できなかったり、居場所がなくなったりすることが多々ある現代ではどうだろう。学校に行っても幸せになれる保証がない現代社会ではどうだろう。選択肢として認められることがいくらかはあり得ると思うし、否定もしにくいのではないだろうか。

 

これは少なくとも教育の他に職業や家族、思想の領域でも起こっていると思う。フリーランスとか自由な生き方とか、新しい家族の形とか、様々な選択肢が肯定され、否定できなくなる。

 

 

 

(疲れてきたのでこの辺から適当になります。)

 

 

 

ただこれは、肯定され、否定できなくなるだけであって、新しく生まれる選択肢が「良い」わけではないと思ってる。今の段階だと今までどおりの常識で生きた方が安定的に幸せになれる可能性は高いと思う。今までどおりの常識で生きられない人が多いから、新しい選択肢が必要とされているのだけど。「私らしく」がその典型だと思う。私らしく生きることが良いかはわからない。

依然として不登校児の大多数は厳しい状況に置かれているしね。否定されなくなったからといって安易にそういう選択をして、後悔しても遅いよって話。

 

 

これからボコボコと新しい選択肢が生まれ、バンバン淘汰されていくのでしょう。個人的には自由に生きるとか、私らしく生きるとかいうのは近いうちにブームが去る気がする。その中で労働、教育、家族、思想の新しいパターンが構成されて、みんなに共有されるのだろうな。それがどんなパターンになるのかはまだはっきりと言えないし、そのパターンが自分にとって良いのかはわからない。

歴史を振り返れば(今は600年前の日本や、500年前のイギリスの大航海時代と酷似しているらしい)ヒントは得られるのだろうが、まだまだ手をつけられていない

この混沌とした正解のない世界で、自分にとっての良いを探して生きたいな。