評価経済社会の今、逸脱した人間はどんなキャラ作りをするように仕向けられるか。前置き。

常識と逸脱、いつだってこの二つが自分のテーマだった気がする。

 

罪を犯した、社会的に悪いとされることをした、やむを得ない事情があった、間違えてしまった、いじめられた。様々な理由で、悪いイメージのレッテルを貼られる可能性は誰にでもある。集団からハブられること、集団からハブられて当然だという風に扱われることは非常に辛く、生きづらい。

僕は不登校、高校中退、メンヘラという、社会的にそんなに好ましくない要素を持っていた。社会とどう付き合っていけばいいのか、なんで自分がこんなにもネガティブなイメージで見られないといけないのかって非常に悩んでた。

そして今思うことは「色々とネガティブな要素持っているけれど、社会とうまく関係作りながらやり直したい」ということだった。

 

どうしたら社会とまた繋がり直せるだろう?自分の罪を認めて反省する?自分の逸脱した部分を活かす?色々考えていたり、大学の勉強を思い返しているうちに、改めて感じた。

「逸脱した人間が社会と繋がろうと思うと、生き方、人間性がすごく制限されてしまう!」

 

 

 

思考は、周囲の環境、もっとよく言えば社会によって決定される

 

例えば発達障害を持つ子どもが「かわいそう」「役立たず」「協調性がない」みたいに言われる環境と、「シリコンバレーによくいるタイプ」「将来有望」「適切なケアをすれば普通に過ごせる、大丈夫」みたいに言われる環境、どちらで育つかによって、物事の見方、自己イメージなどあらゆるものが大きく変わるだろう。これは思考は周囲の環境によって決定されるということでもある。

詳しくはここでは述べないが、これは社会によって思考のパターンある程度決まってしまう、コントロールされてしまうということでもある。自分の意思で物事を決めていた、考えていたと思っていても、実はそれは社会的に用意されているパターンをなぞっているだけだった。ということは多々あると感じる。

住む場所も年代も違うけど似たようなこと経験した人間が全く同じことを考えていることはかなりの頻度で起こっているだろう。あれはまさにこの証明だと思ってて、思考のパターンが社会的にある程度決定されているからこそ起こりうることだと感じる。個々人が自由に思考をして意思決定を行なっているのであれば、もっとそれぞれの考えることはバラバラのはずだ。

 

これは何に対してもそう。逸脱した人間がどんなキャラを作らないといけないか、というテーマでも。

 

 

そもそもやろうと思ったきっかけはvalu

 

今valuってサービスが流行りまくってるじゃないですか。

あれは「人気や評価を貨幣と交換できる経済(評価経済社会ってやつ)」の極みだと思ってて、これからはそういう傾向がどんどん強くなっていくと思うんです。

他人からの評価がますます重要になってくるこの社会で「逸脱した人間、色々あって悪いレッテルを貼られた人間ってどう生きていけばいいんだろう」って思った。他人からの評価されやすい人が有利になっていくこの社会で、評価を受けにくい、応援されにくい人間がどう生きていくのがいいのだろう。

 

そんなことで、逸脱した人間が社会に入っていくために、自身をどう解釈、説明するか(どう説明することが可能か)のパターンを考察してみたいと思った。どう生きていくかのパターンと言ってもいい。

パターンを書き出す中で、どのパターンを採用するのがいいか、既存のパターンの中に自分や逸脱した人間がうまく生きれる方法がないのなら、新たなパターンを作り出すことはできないか。

自分をはじめとして、もう一度やり直したいと思う人間ってたくさんいると思う。もう一度やり直すことが難しい世の中に疑問を感じている人もいると思う。

確実に、「逸脱した人間が社会へと繋がるためにはどうしたらいいか」がこれから議論されると思うし、少なくとも僕は議論されるべきだと思う。だから自分なりに考えてみたい

 

というわけで、ぼちぼちやってきます。

 

 

表現が本当に苦手な自分が、表現できるようになる可能性を見つけた。

発達障害と犯罪について書こうと思ったんだけど、(間違いを犯しやすいのだから、間違いを犯す要因を取り除いて許すことが大事なのではないか、みたいなこと)

次のツイートに心を奪われたので、そっちについて書きます。

 

 

作文とか美術が本当に苦手だった。

 

chubby_haha
作文が書けなかった学習障害がある子。ずっと「やる気がない」「ふざけるな」と叱責され続け自信を失いかけてた時に先生が「書きたい事を言ってごらん、先生が書いてあげるから」というのをきっかけにどんどん素敵な作文ができあがっていった。適切な支援は、過小評価を覆し自信を与えてくれるだよね。
2017/05/29 16:51

 

 

あ、昔の僕だ

 

作文とか、心の中に思いついた絵を描くとかすっっっっっっっっごく苦手だった。「え、、何したらいいの?」って感じで頭がフリーズしたまま2時間も3時間も白紙のまま、動くことができなかった。

周りの子はぱぱっと自分の書きたいことを書いていたのに、自分だけはどうしてもできなかった。周りや先生に注意されたり馬鹿にされる中、自分のできることは困ってるポーズをとりながら「できない!助けて!」ってアピールすることだけだった。

小学校なっても、中学校なってもできなかった。中学校の時とか手先の不器用さも合間って、できなさ過ぎて嫌になって作品を破り捨てて帰った。(クソガキである。後日みっちり怒られました。)

毎回授業時間過ぎて、居残りで課題に取り組んでた。毎回どこかのタイミングで頭の中でイメージが完成して、筆を動かすことができるようになって、そうなってからは短時間で仕上げることができていた。考える時間:実際に取り組む時間=10:1くらいの割合だった。

なんで自分はこんなにできないんだろう?人の目を気にし過ぎているのか?自分の気持ちを表現することが怖いのか?疑問のまま、時が過ぎてしまった。そして美術や芸術が本気で嫌いになってしまった。

 

そして上記のツイートを発見。15年越しくらいに思った。

「そうそう!そう言って欲しかった!そういうサポートが欲しかったんだ!」って。

 

白紙に向き合っている間、自分は何も考えていなかったのではない。心に何も浮かんでいなかったわけでもない。もやもやとした何かはずっとあった。書きたい何かはずっとあった。

ただ、どう言語化したら、どう表現したらいいのか、わからなかったんだ。

さらに言えば、どう書いたら褒められるのか、正解なのか、それもわからなかった。

多分あの時も、こういうこと書きたい、表現したい。みたいなのを言って「それはこういうこと?」みたいに翻訳してくれる人がいたら、他の人と同じようにできたんだと思う。

 

 

上記のツイートを見てさらに思ったことがある。

「真っ白な場所に自由に描くのが苦手、これって僕の生きづらさの中心じゃないか?」

 

僕の苦手だったものをあげていくと

作文や美術(特に心の中にあるものを自由に書こう、みたいなやつ)

0→1で、その場にない新しい何かを考えること

会話、飲み会での雑談

初めて見るものに対しての対応

 

反対にできたものを考えると

論文、小論文

WEBデザイン

プログラミング

(この3つ、本質はルールに則って、既にあるものを組み合わせているだけだったりする。)

プレゼン

グループワーク

ルーチンワーク

昔から付き合ってる親しい友達との会話

仲がいい友達の似ている人との会話

初めて出会う人との自己紹介、会話

 

 

ここから

・自分の内面を表現するのがとても苦手、自分の外部にあるものを組み合わせるのは得意

・新しい場面は苦手、何度も経験してパターン化されたものは得意

・定型化されていないものは苦手、定型化されているものは得意

という自分の特徴が浮かび上がる。

 

自由に色々書くのは苦手、論文なんかは書くべきこと、書くためのルールがきちんとあるからできる

プログラミングはルールに則って、自分の外部にあることを組み合わせているだけだからできる

飲み会の雑談は定型化されていないからできないが、同じメンバーの会話ならある程度パターン化されているのでできる。(不安とか、色々絡んでいる気がする。)

 

 

そしてこれらの事実からわかることの一つは

 

自分はサポートさえあれば、表現活動ができるかもしれない!ということ

 

表現ってものにすごく興味を持っていた。けど自分にはできないと思ってた。

手先は不器用だし、自分の内面を描くことは苦手だし。美術の成績すっごく悪かったし。でも、表現したいって思いはすごく持ってる

 

自分の内面を表現するための技法とか、ルールとか、そういうものを学んだり、ツールを使うことで、自分は表現や芸術活動ができるんじゃないか。

さらに言えば、それで自分の内面を知ることができるんじゃないか。

そう思うと、今まで知らない自分を知れるようで、やりたかったけどできないと諦めていたことに挑戦できるようで、すごい楽しみ。

 

 

自分は何もしなかったのではない、心にモヤモヤした何かはあったけど、どう表現していいかわからなかっただけ。

この状況の解決策をぼちぼち探したい

 

疲れたので終わります

 

 

卒論を通して学んだ3つのこと

 

僕の人生で頑張ったこと、そして分かりやすい結果が出ているという意味で人に語りやすいのが、卒論だ。

 

卒論をそんな頑張った人ってそんないないかもしれない。学生時代無駄にしてない?と思われるかもしれない。でも、本当にこれだけは頑張ってよかったと思うし、頑張った分得るものは多かった。(多分何でもそうなんだろう。何でも極めれば得るものはある)

僕が卒論から学んだことを、3つ書いてみる。

 

 

 

 

1 1人には、限界がある。

 

卒論書き終わった後、真っ先に「僕の限界はここなんだ」と思った。

365日24時間自分のテーマについて考えてた。部屋は大量の社会学の本で埋め尽くされていたし、締め切り一週間前はカップ麺とお菓子を買い込んで部屋にこもっていた。たまに外に出たと思えばブツブツと社会学の理論を呟きながら散歩をし、Twitterは常に社会学のことでいっぱいだった。教室の黒板2枚に僕1人の文字でいっぱいになるまで理論を書いたし、ゼミで集まった時には同期に脈絡なく社会学の質問ぶつけたりして語り出したりしてた(ほんまにごめんなさい)

はっきり言って、気が狂っていた。それくらいやった。書き終わったとき、「僕の限界はここなんだ!こんな何も知らない小さな存在が僕なんだ!」って絶望した。

大学に認められて優秀賞を頂いたのだけど、「どうやったら最優秀賞を取れたのだろう?最優秀賞とる人ってどんな人なんだろう?」と思った。あれ以上、どう頑張ればよかったのか。

 

僕の答えの一つは、「誰かと協力すること」だ。

僕1人の限界はここだった。でも、例えば誰かと教えあったり、誰かに相談したり、勉強サークルに入ったりしてたら、もっと違う結果が出てたんじゃないか?と思う。

僕は自分の本心を誰にも言えなくて、誰とも相談せずに研究してしまった。思えばいつでもそうだった。1人で悩んで、抱えて、めちゃくちゃな努力をして解決しようとしていた。そして病んだり体壊して来た。もし誰かと関係を築いて、協力して行うことができていたら、僕はもっと楽に、体や心に負担をかけず上に行けたのではないか。

他にも勉強法とか効率とか体調管理とか色々要因はあるけど、一番はこれだと思う。1人でできないこと、越えられない壁は、誰かと一緒に乗り越えたらいいのだ。社会の存在意義ってそれだと思うし。

なお、「苦手だけど頑張って人と繋がろう!」と考えて安易に行動した僕は、完璧に距離感わかってないこじらせた奴になって新しい環境で爆死しました。誰か僕に人との繋がり方と一般常識を教えてください。後、自分のメンタルだったり性格だったり振る舞いだったりは解決しような。

 

 

2 研究は終わりのない壮大なプロセス

 

僕の限界はここだと思うと同時に、「社会学の0.00000000001%すら知らない」と感じた。社会学という学問領域ですらそうなのだから、僕は世界のことを何も知らないのだと思う。やってもやっても出てくるのは疑問点ばかりで、何も知らないことを思い知らされた。一生かけても、僕が知ることができるものは限られていると悟った。研究には、多分終わりがないのだ。というか終わりがどうやっても見えないのだ。

 

研究とはわかりやすく言うと、リレーのようなものだと思う。僕が読んで来たあらゆる本は、先人達が膨大な時間と命をかけて解き明かした知識の集合体だ。僕達は先人達が解き明かした知識を元に、先人達が説き明かせなかった物事を研究する。そしてそれを次の世代に託し、彼らが僕らができなかったことを解明していく。バトンを渡すように、知識は過去から未来へと受け継がれていく。そうやって、何世代もかけて世界の仕組みを解明していく。そうやって1人ではできないこと、知ることができないことを知っていく。

その壮大なプロセスが研究であり、それには多分終わりはないのだ。わからないことがあまりにも多すぎるのだから。

 

僕はこの経験を通して、それまで全く興味のなかった歴史を勉強しようと思った。社会、政治、人間、あらゆることは皆過去の積み重ねの上に今がある。一から自分で学ぶよりも、過去から学んだ方が効率がいいと気づいた。

そして、僕が全てをやる必要はなくて(できないし)、僕の後に誰かが続いてくれて、僕ができなかったことをしてくれたらそれでいいんだなって、素直に思えた。

 

 

 

3 いつかは真実にたどり着ける。

 

「そうだな・・・ わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ・・・近道した時『真実』を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?真実へ向かっているわけだからな・・・違うかい?」

ジョジョの奇妙な冒険第5部より

 

ジョジョの中で一番好きな言葉なんだけど、これはマジだと思ってる。

 

僕は社会学の中でも教育や学校の研究をしていた。詳細は割愛するが、そこに自分がどうしても知りたいこと、知らないと生きていけない何かがあると感じたからだ。何が知りたいかはわからなかったが、そう直感したからこそ文転してまで社会学部に入学したし、気が狂うまで必死で研究したのだと思う。

思い返せば全然平坦じゃなかった。研究する分野や専門を何度も変えて、大量の本を読んで、勉強方法も何もわからずがむしゃらに論文を書いて、挑戦しては失敗して、何でこんなことに学生生活捧げてるんだろう、もうこのテーマを研究するのはやめようって泣いて、苦しくて泣いて、先輩や教授と喧嘩して、途中で何度も何度も人に迷惑をかけた。無様だし、カッコ悪かった。後悔と反省点なら死ぬほどある。それでも「何かがある」という直感の元、突き進んだ。しかし、僕は自分の納得のいく答えを見つけることができなかった。それは卒業論文を書き終えた時ですら、そうだった。

だが、僕の研究はそこで終わりではなかった。社会人になり時が経つにつれ考えが整理されて、卒論のその先に考えを進めることができた。また新たに得た知識や経験を元にああも考えることができる、こうも考えることができると、自分の議論をさらに前に進めることができた。

卒論を書き終えてから1年ほど立った時、僕は自分の知りたいものにたどり着くことができた。その答えにたどり着いた時「ああ、これが自分の知りたいことだったのだな」と理解することができた。「知りたい何かがある」と思い始めて、6年もの歳月が過ぎていた。

 

 

辿りつこうという意志さえあれば、いつかは真実、自分の納得できる何かにたどり着ける。

だから僕は、心のどこかで生きることを諦めていないし、諦めたくないのだろう。

 

 

 

まとめてみて

卒業論文から大事なこと、たくさん学んでいるなと気づいた。

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、後悔、いろんなことがあるけど、僕は歩んでいきたい。

たどり着きたい何か、諦めたくない何かがあると感じるから。

 

不登校から見る現代社会。常識の崩壊と新たな選択肢。(途中で力尽きた)

不登校は、時折本人の主体的な選択として肯定されることがある。

 

これは歴史を紐解けば、何らかの事情により学校に行かなくなった(行けなくなった)ことで、社会や親から否定され続け、傷つけられた子ども達を守るための言説である。「僕たちは学校に行けなくなったダメな人間ではなく、いじめがあったり画一的な教育を推し進める学校には行かない方が得であると判断して、行かないことを選択したんだ」と自分たちを解釈し直し、発信することで、不登校児の自尊心を守ろうとしたのである。そしてしばしば、上記の言説を通すために、学校やそれに基づく現代社会が否定され、不登校は学校に行くよりもより良い選択肢として主張された。

 

昨今、学校に行かないことは「選択肢としてアリだ」という風潮が強まっている。不登校数は毎年増加しているし、「学校に行くことよりも、本人の幸せや選択を優先してあげて」というブログや記事もたくさん見るようになった。だがこれは、学校に行くことよりも行かないことの方が良いことが多くなったから選択肢として認められたのでは無い。むしろ逆である。社会の変化の中で、学校に行った方がいい根拠がなくなりつつあり、不登校を否定できなくなっているからこそ、起こっている現象なのである。

これまでの当たり前、常識の信頼性が薄れてきているから、当たり前では無いことを否定できない。

このようなことが、社会のあちこちで起こってきている。

 

 

このことは身近な会話でも確認できる。

最近意見を述べる時、特に相手や社会に対して言いにくいことを述べる際に「私は、こう思う」と言う人、その述べる人に対して「あなたがそう思うんやったら、それでいいんじゃない?」と言う人がすごい増えたと感じる。このような会話が増えたのは、多様な価値観が認められるようになったからとか、個人が自分の考えを主張することを求められるようになったとか、そういうことだけではないと思う。これまでの常識や社会が信頼できなくなってきたから、みんな自分の考えを述べるしかないし、相手もそう答えるしかないのではないだろうか。

 

先ほどの不登校のことを例に出して考える。例えば今

「私学校に行かない。朝起きれないし家で勉強した方が集中できるし成績伸びる」

という子どもがいたとする。おそらく昔なら「甘えるな!」「学校に行かないとちゃんとした大人になれない!」と言われたんじゃ無いだろうか。しかし、学校に真面目に通って就職しても経済的に安定できなかったり、居場所がなくなったりすることが多々ある現代ではどうだろう。学校に行っても幸せになれる保証がない現代社会ではどうだろう。選択肢として認められることがいくらかはあり得ると思うし、否定もしにくいのではないだろうか。

 

これは少なくとも教育の他に職業や家族、思想の領域でも起こっていると思う。フリーランスとか自由な生き方とか、新しい家族の形とか、様々な選択肢が肯定され、否定できなくなる。

 

 

 

(疲れてきたのでこの辺から適当になります。)

 

 

 

ただこれは、肯定され、否定できなくなるだけであって、新しく生まれる選択肢が「良い」わけではないと思ってる。今の段階だと今までどおりの常識で生きた方が安定的に幸せになれる可能性は高いと思う。今までどおりの常識で生きられない人が多いから、新しい選択肢が必要とされているのだけど。「私らしく」がその典型だと思う。私らしく生きることが良いかはわからない。

依然として不登校児の大多数は厳しい状況に置かれているしね。否定されなくなったからといって安易にそういう選択をして、後悔しても遅いよって話。

 

 

これからボコボコと新しい選択肢が生まれ、バンバン淘汰されていくのでしょう。個人的には自由に生きるとか、私らしく生きるとかいうのは近いうちにブームが去る気がする。その中で労働、教育、家族、思想の新しいパターンが構成されて、みんなに共有されるのだろうな。それがどんなパターンになるのかはまだはっきりと言えないし、そのパターンが自分にとって良いのかはわからない。

歴史を振り返れば(今は600年前の日本や、500年前のイギリスの大航海時代と酷似しているらしい)ヒントは得られるのだろうが、まだまだ手をつけられていない

この混沌とした正解のない世界で、自分にとっての良いを探して生きたいな。

 

 

 

社会を一つのモデルで表すことは可能か。

社会の仕組みを一つのモデルで表すのは無理って、それ諦めじゃないの?
 
 
理系クラスタの友人にこんなことを言われた。
 
 
理系クラスタの友人に社会学を話しても、だいたいよくわかってもらえない。
もちろん、僕の勉強不足が大きいし、コミュニケーション能力不足も大きい。
 
しかし、上記の言葉だけがすっごく頭に残った。モヤモヤした。
ついでに言うなら、僕の説明不足や勉強不足で「社会学ってしょうもない学問なんだなー」って思われてたりしたら、それはすっごい悔しい。
社会学は歴史は浅いとはいえ、面白いし、物理学や哲学に負けないほど価値のある学問領域だと思う。それをちゃんとわかってもらいたい。わかる気がないのなら説明しても無駄なんだけど、説明できる言葉を持ちたい。
 
このテーマを扱うには僕は勉強不足だと思う。僕のやってきた社会学はすべての社会に普遍的に当てはまる現象、構造を見つけることではないからだ。でも、今の時点での自分の見解をちゃんと整理しときたい。
 
 
 
 
社会学の大きな特徴は、対象と観察者が切り離されていないことにある。
物理学や工学であれば、対象と観察者は切り離されて考察されているだろう。それはつまり、対象の外から物事を考察することができると言うことだ。
社会の場合はそれとは違う。社会と人間は密接に関係しており、人間の行動によって社会が構築されて、その社会が人間にまた影響を与えている。人間と社会は切り離せないものであるのだ。故に社会を観察、考察しようとする際には、社会の内側から、自分の見えている、知っている範囲で考察するしかないのである。そうすると、そもそも社会の全体像を掴むことなど可能なのだろうか。それは例えるならば日本と言う国の中から、地球のすべての地形を把握するようなものだ。
 
ここで「ある人が日本を、ある人がアメリカを、ある人が中国を調べて、みたいにして分担して調べて、それらすべてを組み合わせれば社会の形がわかるのではないか」という意見が出てくることが予測される。しかしそれらが全ての社会だとどうして言えようか。見過ごしているだけで別の社会があるかもしれない。結局はどこまで広い範囲で調べ、その上でモデルを構築したとしても、一定の前提と範囲ではこのようなことが言える、以上のことは言えず、全ての社会を説明できるとは言えないのである。
 
結論を言えば、どこまで言っても、「自分たちが知っている社会では」という前提がつきまとう。それなのに全ての社会でこのことが当てはまる!なんていうことは傲慢だし、そう考えると全ての社会を説明しているモデルを作るなんてことは不可能なんじゃないかと思えるんだ。
 
 
雑記
そもそも社会学において使われるモデルって、物理法則のような絶対的なものではなくて、考察の材料として使われる、程度のものな気がする。モデルや理論通りにいかなくてなんぼ。なところあるし。
 
一つのモデルで社会の仕組みはある程度説明できるかも。
宗教社会学の儀礼モデルで、意図的に集まった集団がなぜまとまっているかは説明できるような気がするし。
ただそのモデルだけでは絶対に見えない側面があると思う。
 
こう言う場合にはこう言う社会ができる、こう言う社会現象ではこう言うパターンがあるとか、大まかなパターンはある程度あると思う。ただそれをモデルにしても、モデル通りに物事が動くことはないと思うし、それは誤差とか間違いでなないのだと思う。その社会では、そういうことが実際に起こってるのだからそれが正しい。
そしてモデルの社会が絶対に正しいなんて誰にも言えないのだから(もしそれが言えるとしたら、そいつは神様かよって話になる。このように動く社会がスタンダードだって言っているようなものなんだから。どの社会がスタンダードかを決めるほど、社会学者は偉いのかって話になる。)そう考えたら、やっぱモデルの信用性自体、物理法則ほど強くないのかも。