心のリストカットをやめる

「今のあなたは、見えない包丁で自分を滅多刺しにしているように見えます」

 

とあるlineグループで自分は駄目だ、頭が悪すぎると話してしまったところ、そう言われた。正直なところ、言われたときはどういうことなのかよくわからなかった。

 

 

 

 

いつからか、自分を責めることが癖になっていた。

 

人と会った後は必ず1人反省会を開いて、今日の自分のダメなところを探していた。服装、思考、振る舞い、話し方、空気が読めていたかどうか、話し出すタイミング、今日の行動を思い返しては反省し、自分を責め、次に向けての改善案を出していた。自分ではPDCAを回しているつもりだった。ダメな自分が、少しでも普通の人間に近づけるように頑張っているつもりだった。

 

自分を責めると安心する。許された気持ちになると書いた方が近い。

自分を責めて、苦い記憶や恥を噛み締めて「あなたは人間のクズなんだよ?あなたがクズだから友達や恋人は離れていくし、何をやっても失敗するし、尊敬する人に好かれないんだよ?全部貴方が悪いんだよ?」と自分に囁く。ストレスで頭痛がして視界が歪む。苦しい。痛い。同時に少しだけ、義務を果たしているような気がして誇らしくなる。

僕はダメな自分をこんなにいじめました。今日もダメな自分をこんなに苦しめました。まともな人間になれるようにこんなに頑張っています。だから許して?仲間に入れて?って。

自分を否定して叩いて切り刻むことでしか自分を許すことができなかった。

 

 

 

 

 

「自論だけど、自分を大切にできない人は他人を大切にすることなんでできないからね」

 

今日聞いた言葉だ。何度か聞いたことがあるし、自分でも何度も考えたことがある。

 

数年前の話をする。

僕は就活が本当に上手くいかなかった。どこも一次面接が通らなくて、藁を掴む気持ちで頼ったのが新卒向けの就活エージェントだった。エージェントと面談して、自分のキャリアの志向を明らかにして、自分にマッチしている企業を紹介するというビジネスだ。

その面談が本当に酷かった。オフィスビルの一室での、2時間を超える個人面談のほとんどは人格否定だった。人格否定した後は褒めたり「まだ若いんだから」と励ましたり、俺と一緒にやっていこうぜみたいな空気を醸し出したりもした。その全てが気持ち悪くて今すぐ窓から飛び降りてやろうかと思った。

面談後から僕の精神は極度に悪化した。鏡に向かって毎日毎日「お前はダメ人間だ」「お前はゴミクズだ」「お前は誰からも愛されないんだ」などと言い続けた。不思議とそうすると落ち着くのだ。続けているうちに自分には価値が無いとしか思えなくなった。そして世界の全てに、全ての人間に平等に価値が無いと考えることで、価値のない自分を肯定するようになった。

 

 

当時の友人の1人が、ものすごく悩んでいた。

彼は彼で苦しんでいた。人間関係に違和感を抱き、普通の人間になりたいと願っていた。何かが満たされないようで、いつもその答えを探していた。僕も僕で病んでいたのでよく話していた。言ってしまえば共依存だと思う。

 

精神が極度に悪化していたときに病んだlineが届いた。毎回同じような内容が届くので正直辟易していたところもある。いつも愚痴を吐き終わったときにこうしたらどうか?という具体的な方法論を提示していた。ただその時はもうだめだった。

 

「お前が愛されないのは、お前がダメだからだよ。お前がクズだからだよ。」

 

 

 

 

自分の存在について悩む人間にこんな言葉をかけることが、どれだけ残酷なことか。

自分を切り刻んでいた包丁を、彼に向けてしまった。

 

言い訳をすると焦っていた。彼があまり良くないことをしようとしていて、なんとか止めたかった。しかしどう言っても変わらず、もう彼を攻撃して無理矢理やめさせるしか思いつかなかった。他に方法がわからなかった。僕も自分をコントロールすることができなくなっていた。

その後、彼は取り返しのつかないことをしてしまった。

 

 

 

 

 

「てめえみたいなクズ見たことねえよ」

仕事の昼休憩中に、呪いのようなlineが送られてきた。

激しく後悔した。背筋が凍り、割れるような頭痛がした。僕が彼の人生をめちゃくちゃにしたんだ。僕が彼を壊したんだ。そう思った。

引きつった笑顔で仕事を再開する。仕事をしながら僕はなんてクズなんだ。僕はなんてダメなんだと自分を切り刻んだ。次の日も、また次の日も、頭の中で何十回何百回も彼の言葉が再生された。朝も昼も夜も自分の心を切り刻んだ。他に償い方がわからない。そもそも償う方法なんてない。せめて自分自身を否定しないと気が済まない。

その日から夜眠ることができなくなった。ベッドで横になり、徐々に明るくなる空を見て絶望し、寝むれないまま会社に行って雑な仕事をして帰っていった。やがて体調を崩し会社に行けなり、そのまま休職した。

 

 

 

 

 

 

 

「これ、心のリストカットですよね」

 

自分を否定すると落ち着くし、安心する。いつしかやめられなくなり依存する。そのことを病院のワーカーさんに相談したらそうだよ、自傷行為だよと言われた。

身体を切ったりしてないからいいじゃんと思っていた。しかし言葉の暴力や精神的な嫌がらせが、身体の暴力と同じように非難されるように、自分の心を痛めつけることも立派な自傷行為のようだ。

 

自分の身体や心だから痛めつけてもいいわけではない。見ている人も苦しい。塾講師やってた頃、生徒がこっそり見せてくれたバーコードのような腕と「私なんて早く死ねばいい」という言葉に少なからずショックを受けた。「別に切ってもいいけど、縫ったり死んだりするのはやめなよ」みたいなこと言った気がする。止められないし、それが生きる方法なら仕方がないのかなと頭では理解していた。本当はやめて欲しかったし、できるなら自分を大切にして欲しかった。どうやら僕は彼女と同じことをしていたようだ。

 

 

できるのなら、自分を見えない包丁で切り刻みたくない。

結果的に自分も他人も不幸にするからだ。twitterに自己否定の言葉を霰のように降らせていたけど、これもやめようと思った。

 

「なぜ自分が上手くいかなかったか。なぜ自分が傷つかないといけなかったか」

このことに向き合うのはとても難しい。理由のない暴力、嫌悪、差別、偶然、自分にはどうしようもできない世界の理不尽さと向き合うことでもあると思う。そんなものと向き合うくらいなら、自分が悪いことにして断罪した方が遥かに楽だ。

上手くいかなかった原因を自分に求めて、自分の心を切り刻んで、勝手に苦しんで、勝手に罰を受けた気持ちになって、勝手に安心して、そうした方が楽だ。しかしそれでは何も変わらない。残念ながら「やった気になっただけ」になってしまう。

 

自分の行動を改善するにもやり方があるはずだ。

要因を細かく分け、自分にコントロールできる場所を特定し、それは反省しないといけないことかを吟味した方がいい。

もしそれが反省すべきことだった場合、するべきことは自分を心理的に責めることではなく、可能な範囲で行動や思考を変えるための具体的な方策を考えることではないか。

何か反省すべきことがあるとして、まともな人ならば「僕が未来永劫苦しみ続け、自分を切り刻み続けること」ではなく「僕の言動や行動の改善」を期待するのではないか。ならば軸足をそちらに移すべきだと思う。

 

 

 

いまだに、自分を大切にするとはどういうことなのかよくわからない。しかし、心のリストカットだけはやめていこうと思う。

ワーカーさんに伝えると「努力は必要だと思うよ。揺れてもいいからやってみて」と言われた。ぼちぼちやっていきたい

 

 

卒論を通して学んだ3つのこと

 

僕の人生で頑張ったこと、そして分かりやすい結果が出ているという意味で人に語りやすいのが、卒論だ。

 

卒論をそんな頑張った人ってそんないないかもしれない。学生時代無駄にしてない?と思われるかもしれない。でも、本当にこれだけは頑張ってよかったと思うし、頑張った分得るものは多かった。(多分何でもそうなんだろう。何でも極めれば得るものはある)

僕が卒論から学んだことを、3つ書いてみる。

 

 

 

 

1 1人には、限界がある。

 

卒論書き終わった後、真っ先に「僕の限界はここなんだ」と思った。

365日24時間自分のテーマについて考えてた。部屋は大量の社会学の本で埋め尽くされていたし、締め切り一週間前はカップ麺とお菓子を買い込んで部屋にこもっていた。たまに外に出たと思えばブツブツと社会学の理論を呟きながら散歩をし、Twitterは常に社会学のことでいっぱいだった。教室の黒板2枚に僕1人の文字でいっぱいになるまで理論を書いたし、ゼミで集まった時には同期に脈絡なく社会学の質問ぶつけたりして語り出したりしてた(ほんまにごめんなさい)

はっきり言って、気が狂っていた。それくらいやった。書き終わったとき、「僕の限界はここなんだ!こんな何も知らない小さな存在が僕なんだ!」って絶望した。

しかし現実には、僕よりもはるかにできる人、優れた人が多数存在する。そんな人たちに追いつくために、そしてもっとより良い論文を書くために、あれ以上、どう頑張ればよかったのか。

 

僕の答えの一つは、「誰かと協力すること」だ。

僕1人の限界はここだった。でも、例えば誰かと教えあったり、誰かに相談したり、勉強サークルに入ったりしてたら、もっと違う結果が出てたんじゃないか?と思う。

僕は自分の本心を誰にも言えなくて、誰とも相談せずに研究してしまった。思えばいつでもそうだった。1人で悩んで、抱えて、めちゃくちゃな努力をして解決しようとしていた。そして病んだり体壊して来た。もし誰かと関係を築いて、協力して行うことができていたら、僕はもっと楽に、体や心に負担をかけず上に行けたのではないか。

他にも勉強法とか効率とか体調管理とか色々要因はあるけど、一番はこれだと思う。1人でできないこと、越えられない壁は、誰かと一緒に乗り越えたらいいのだ。社会の存在意義ってそれだと思うし。

なお、「苦手だけど頑張って人と繋がろう!」と考えて安易に行動した僕は、完璧に距離感わかってないこじらせた奴になって新しい環境で爆死しました。誰か僕に人との繋がり方と一般常識を教えてください。後、自分のメンタルだったり性格だったり振る舞いだったりは解決しような。

 

 

2 研究は終わりのない壮大なプロセス

 

僕の限界はここだと思うと同時に、「社会学の0.00000000001%すら知らない」と感じた。社会学という学問領域ですらそうなのだから、僕は世界のことを何も知らないのだと思う。やってもやっても出てくるのは疑問点ばかりで、何も知らないことを思い知らされた。一生かけても、僕が知ることができるものは限られていると悟った。研究には、多分終わりがないのだ。というか終わりがどうやっても見えないのだ。

 

研究とはわかりやすく言うと、リレーのようなものだと思う。僕が読んで来たあらゆる本は、先人達が膨大な時間と命をかけて解き明かした知識の集合体だ。僕達は先人達が解き明かした知識を元に、先人達が説き明かせなかった物事を研究する。そしてそれを次の世代に託し、彼らが僕らができなかったことを解明していく。バトンを渡すように、知識は過去から未来へと受け継がれていく。そうやって、何世代もかけて世界の仕組みを解明していく。そうやって1人ではできないこと、知ることができないことを知っていく。

その壮大なプロセスが研究であり、それには多分終わりはないのだ。わからないことがあまりにも多すぎるのだから。

 

僕はこの経験を通して、それまで全く興味のなかった歴史を勉強しようと思った。社会、政治、人間、あらゆることは皆過去の積み重ねの上に今がある。一から自分で学ぶよりも、過去から学んだ方が効率がいいと気づいた。

そして、僕が全てをやる必要はなくて(できないし)、僕の後に誰かが続いてくれて、僕ができなかったことをしてくれたらそれでいいんだなって、素直に思えた。

 

 

 

3 いつかは真実にたどり着ける。

 

「そうだな・・・ わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ・・・近道した時『真実』を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?真実へ向かっているわけだからな・・・違うかい?」

ジョジョの奇妙な冒険第5部より

 

ジョジョの中で一番好きな言葉なんだけど、これはマジだと思ってる。

 

僕は社会学の中でも教育や学校の研究をしていた。詳細は割愛するが、そこに自分がどうしても知りたいこと、知らないと生きていけない何かがあると感じたからだ。何が知りたいかはわからなかったが、そう直感したからこそ文転してまで社会学部に入学したし、気が狂うまで必死で研究したのだと思う。

思い返せば全然平坦じゃなかった。研究する分野や専門を何度も変えて、大量の本を読んで、勉強方法も何もわからずがむしゃらに論文を書いて、挑戦しては失敗して、何でこんなことに学生生活捧げてるんだろう、もうこのテーマを研究するのはやめようって泣いて、苦しくて泣いて、先輩や教授と喧嘩して、途中で何度も何度も人に迷惑をかけた。無様だし、カッコ悪かった。後悔と反省点なら死ぬほどある。それでも「何かがある」という直感の元、突き進んだ。しかし、僕は自分の納得のいく答えを見つけることができなかった。それは卒業論文を書き終えた時ですら、そうだった。

だが、僕の研究はそこで終わりではなかった。社会人になり時が経つにつれ考えが整理されて、卒論のその先に考えを進めることができた。また新たに得た知識や経験を元にああも考えることができる、こうも考えることができると、自分の議論をさらに前に進めることができた。

卒論を書き終えてから1年ほど立った時、僕は自分の知りたいものにたどり着くことができた。その答えにたどり着いた時「ああ、これが自分の知りたいことだったのだな」と理解することができた。「知りたい何かがある」と思い始めて、6年もの歳月が過ぎていた。

 

 

辿りつこうという意志さえあれば、いつかは真実、自分の納得できる何かにたどり着ける。

だから僕は、心のどこかで生きることを諦めていないし、諦めたくないのだろう。

 

 

 

まとめてみて

卒業論文から大事なこと、たくさん学んでいるなと気づいた。

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、後悔、いろんなことがあるけど、僕は歩んでいきたい。

たどり着きたい何か、諦めたくない何かがあると感じるから。