不登校.com

学校に行かないことから、いろんなことを考える

大学がいろんな意味ですごい奴ばっかだった話

自分はそこそこすごい人間だと思っていた。

勉強はそれなりにできるし、高校辞めて現役で大学に入学して地元で「奇跡だ」「あいつやべえ」みたいな扱いされて自分は中々すごい人間なんじゃないかと思っていた。

 

しかし、それは違った。

世の中には、というか大学や社会には、僕なんかよりもはるかにすごい奴、とんでもない奴らがたくさんいた。

 

忘備録として、書いておきたい。

世の中には、やべえ奴らがたくさんいるのだと。

そして、結構どんな生き方でもありなのだと。

 

 

 

 

大学で出会ったすごい奴ら

 

○ずば抜けて優秀な人たち

「トイック900点越え余裕。950点からが本番。」

「ドイツ、イギリス、グアム、あちこちに海外旅行、留学行ってきたグローバル人材」

「超大手企業のインターンで優勝して100万円もらう。そのままシリコンバレーだかどっかに連れて行ってもらう」

「普通に部活して普通に勉強して普通に阪大入った。それが普通だと思ってたしそのまま外資コンサルにでも行くのが普通だと思っていた」

外資系メーカーなんかに就職しちゃう」

「営業のインターンして学生にして5000万円の利益を上げる」

「日本の名だたる大企業に片っ端から内定もらって全部蹴ってフリーランスになった」

「株で自分が遊ぶ金くらいは稼ぎ切った」

「真面目にコツコツ勉強して、超安定超大手企業に内定もらって勤める」

「スポーツ全国大会優勝」

 

○自分の道を突き進む人たち

「柔道日本一、柔道のために大学を退学し、東南アジアで修行」

「チャリで日本一周した」

「大学休学して世界一周、紛争地帯とかいろいろ回る」

「大学を卒業後、音楽の道へ」

「大学を中退して、音楽の道へ」

「大学を休学してその道のスペシャリストの元で2年間働く、その後大学院で自分のやりたいことの研究をする」

「学生にして巨大NPOの幹部」

「東北の被災地ボランティアに全力を注いで、被災地から個人名で表彰される」

「バイトして金貯めて、夢のために専門学校へ。夢が叶わなかった時のために大学にもダブルスクールで通う」

「大学に通いながらバーを経営」

性的少数者の居場所作りの活動を行い、啓発活動にも取り組んでる」

 

○いろんな環境、境遇を生きる人たち

「親が会社の社長」

「金持ちでめっちゃ美人でめっちゃ性格良い、二次元から出て来たようなお嬢様」

「カナダに留学してから大学来た」

生活保護家庭で生まれ虐待されながらも勉強して大学まできた」

「高校までヤンキー、そっから250万貯めて大学へ、そのまま広告代理店大手就職」

「大学で病んで辞めて通信制大学に転学、そこで勉強して自分のなりたいものへ」

「15歳で家出して、違法風俗で働いてなんとかサバイブしてきた。夢を叶えるために今も風俗で金貯めている。」

「学費や生活費みんなキャバクラで働いて稼いで、大学に通ってる」

「中学卒業後家出してホームレスになり、そこから大学に来る」

「7年間引きこもってたけど大学に来た」

「大学入って一度やめて引きこもって、また大学に入り直した」

村八分にされたり親から性的虐待受けたりして、自分の存在意義に悩みながらも自分にしかできないことを考えて、前向きに生きてる」

「20歳まで生きれるかどうかわからないような重度の障害を持って生まれて、えぐい差別といじめを受けて大学にきたけど、悩みながら働いて、前に進んで歩いてる」 

 

…思いつく限り色々書いてみたが、いかがだろうか。いろんな人がいるなーと思いません?

これはまだまだ僕の知ってる範囲内で、広報誌とかニュースとかみてる限りもっともっといろんな人がいるんだと思う。他大学とかに目を向けてみると同い年の人が起業してたり、何十億も稼いでたり、日本のあちこちを自分の足で歩いて旅してたり、もっとすごい人がいっぱいいる。

 

 

どんな境遇でも生きていいし、自分らしく生きれたらそれはかっこいいのだと思う。

 

でもこれだけでも少しわかると思う。

世界には、すごい人たちがいっぱいいるんだということと、

人生に正解なんてないんだってこと。

 

田舎の高校でそこそこ頭良くって、学校行ってなかったことがすごいコンプレックスで、人生終わった死のうくらいに思ってて、高校辞めたけど大学に入学した程度のエピソードが自分の持つ1番すごい話で、人間の価値を図るモノサシが「偏差値」と「部活」しかない、

そんなちっさい自分にとって、数々の出会いは本当に衝撃だった。

 

世界には、自分のモノサシの上限をはるかに超えたとんでもない人がたくさんいる。

自分のモノサシにないすごさ、強さを持っている人が沢山いる。

世間のモノサシや常識ではなく、自分の信じる道を進む人たちがいる

そして、いろんな境遇で生まれて、それでも生きている人が沢山いる。

 

 

世間的には、というか自分の中では「いい大学出ていい会社入ってこそ人生」みたいなものが根強く残ってて、それを中心とした価値判断をしてしまうのだけれど

多分どんな不幸な境遇でも、世間や自分のモノサシからずれた生き方することになっても、捻くれずに前を向いて自分の人生を歩けたら、

それはかっこいい生き方なのだと思う。

 

そういうことを学んだ

 

 

 

今生きづらい人は、大学に行ってみたらいいのかもしれないし、

大学を卒業した人たちは、大学を思い出してみたらいいのかもしれない。

あそこには、想像を超えたような人や出会いが沢山あったはずだ。

そういう出会いやそういう人と同じ場所にいた、という事実が自分を変えていくこともあるのかなと思う。

 

以上、忘備録でした。

 

 

不登校という言葉がそんなに好きじゃないし使いたくない。

不登校とか登校拒否とか、実はそういう言葉をあまり使いたくなくなった。

ただ一般的に多く使われているのは不登校という言葉なのと、不登校.comの語感がいいという理由でブログのタイトルにしている。

 

 

不登校とか登校拒否とかそういう言葉って、やはりネガティブなイメージが付きまとっている。怠けてるとか、甘えてるとか、弱いとか、コミュニケーションが苦手とか、病んでるとか、将来引きこもりになってしまうとか。そういうの。

不登校という言葉によって、学校に行っていた人は学校に行かなかった人たちに対してそのようなネガティブな目線を向けてしまうし、学校に行かなかった人たちは自分たちを不登校というネガティブな存在だと定義してしまって落ち込んでしまう。そんな現状があると思う。

 

 

学校に籍を置いているのに、学校に行かない人には様々な理由がある。

 

めんどくさい。お金がない。病気で休まないといけない。メンタルがしんどくなってしまった。いじめられて学校に行けない。発達障害や人と違ったところがあって学校にどうしても馴染めない。疲れ果ててしまった。

自分から学校に行かないことを選択した人も、本当は学校に行きたいけど学校側に課題があって行けない状態にある人も、自分の力ではどうしようもなくて学校にいけなくなってしまった人も、学校に行かないという行為が必要な人もいる。

そういう人たちをネガティブなイメージを持つ言葉で一括りにしてしまうのはどうなんだろう?何か別の言い方や括り方はないのだろうか。

 

学校に行っていない人には、いろんな人がいる。いろんな事情、思いを抱えた人がいる。学校に行っている人に、いろんな人がいるように。

そりゃあ中には「それはどうなの?」って人もいるけれど、それは学校行ってる人の中にもいるだろう?

そう思って、不登校とか登校拒否とか、そういう言葉に当てはまる人のことをただ「学校に行ってない人」と捉えたらどうかと考えている。ポジティブな意味もネガティブな意味もなく、ただ「学校に行っていない人」。

 

学校に行っている人と、学校に行っていない人は人体の構造的にも、精神的にも、本来何の違いはないはずだ。ただ、この社会の都合として学校に行っていないことは悪いこととされている。そして学校に行っていない人にはネガティブなレッテルが貼られ、時には偏見の目で見られ、時には差別される。そのネガティブさが不登校という言葉から醸し出されるイメージに現れていると思う。

だから不登校という言葉に違和感を覚えたり、使いたくなくなったのだと思う。現実はそこに(なんらかの事情もあって)学校に行っていない人がいるだけだ。

 

このブログの目的の1つとして、「学校に行っている人と、学校に行っていない人が共に生きる社会を考える」というものがある。そのような社会になるためには学校に行っている人も学校に行っていない人もどちらも肯定される社会であるべきだと考えている。しかし現状として、学校に行っている人が正しく、学校に行っていない人は間違っているという状態がこの社会には存在する。

不登校ではなく「いい悪いは別として、ただ学校に行っていない人」と捉える。わずかなことかもしれないが、このような視点、考え方はそのような状況を打開する1つの切り口になるんじゃないかと思ったりしている。

  

 

 

 

 

当たり前すぎてわからない。学校に通っていた人の7つの長所

「学校に真面目に通えてた人って、実はそれだけでめっちゃ優秀なんじゃないか?」

 

日本に生まれたらほとんどの人は学校に通う。小学校、中学校、高校、人によってはその後大学や専門学校に進学する。

彼らは毎日授業を受け、スケジュール通りに動き、ルールを守り集団行動をとる。帰ってからは宿題に取り掛かり、合間に友達とLINEしたり遊んだりして人間関係を築いていく。そんな彼らは実はとんでもなく優秀なのではないだろうか。少なくとも僕には無理だった。

 

というわけで、学校に通っていた人の長所を七つあげてみようと思う。

 

 

1人間関係を築くのがとてもうまい

 

学校に通っていた人は、人間関係を築くのがとてもうまいと思う。

 

まず毎日人と会って会話しているため、会話のバリエーションやスキルが学校に行っていない人に比べてレベルが高い。相手を喜ばせる、人間関係を築くための道具をたくさん持っているのである。

また、毎日住んでいる地域が同じ、もしくは近いというだけで性別も性格も親の職業も所得も趣味も好き嫌いも違う人が集められた教室という空間に通っているだけあり、多様な人の中で人間関係を作るスキルがとても高い。

見た目や話した感じから自分と気が合う人を見極め、仲良くなれそうな人には近づき、そうではない人とは距離をおくということができるようになるのである。これは集団で活動するにあたって非常に大事なスキルである。

 

学校に通っていた人はこのように、人間関係を円滑にするためにスキルを多く持っているのである。

 

 

2規則正しい生活を送ることができる

 

学校は毎日同じスケジュールで過ごす。

同じ時間に授業を受け、同じ時間に給食を食べ、同じ時間に部活動を行い、同じ時間に帰宅する。このような毎日を送っている間にいつのまにか「規則正しく、健康な生活習慣」と「予定をたて物事を効率的にこなす力」が身についてしまうのである。

 

この2つは物事や仕事を効率的にこなす上でとても重要な力となる。それが初めからある程度身についているのだからすごい。

 

 

3多様な価値観を身につけている。

 

前述したように学校には多様な人がいる。性格も、所得も、趣味も、好みも、得意不得意も違う人たちが集まっている。大人になるとこれほど多様な人が集まる機会は中々ないし、自分で友達を作ろうにもどうしても似た人が集まってしまうので、学校は非常に貴重な場であると言える。

多様な人が集まる中で、多くの考え方や生き方を知り、いろんな人がいることを肌で知ることができる。また多くの人と自分を比較することで自分がどのような人間なのかを知ることができる。学校がなければ絶対に知り合わなかった価値観、人もたくさんいるだろう。

多様な人と繋がり、中には友好関係を結ぶことで、自分の世界を広げ、成長することができる。学校は多様な価値観に触れることができる非常に恵まれた場なのである。

 

 

 

4我慢強い

 

義務教育ではわずか6歳の時から授業を受け、1日中机に座って勉強することを求められる。時にはやりたくないこと、嫌なこともやらないといけない。また嫌いな人と接する機会も多い。

その中で鍛えられた忍耐力と集中力は半端なものではない。嫌なことも我慢してやり続ける力。休憩をとりつつも長時間何かに集中する力が養われるのである。

将来仕事をする時にも、ここで鍛えた忍耐力と集中力は非常に約立つだろう。仕事では嫌なこともやらないといけないし、何よりも長時間集中できるというのは非常に優れたスキルである。

 

5継続的に努力ができる

 

学校では日々の授業の他に、毎日宿題や課題が出される。これにより日々継続して努力する習慣が身につくのである。

塵も積もれば山となる。継続して努力することにより、人は大きな目標を達成することができる。その基本的な姿勢が最初から身についているのである。

継続的に努力する方法を知っているというのは非常に重要なことである。人には皆「こうなりたい」という願望を持っている。それを叶えるための1番の方法が「継続的に努力すること」だ。努力する姿勢、習慣が身についているというのは自身の夢や人生において大きなメリットになりうる。

 

 

6ルールを守り、集団で生活することができる

 

学校、そして社会には集団で気持ちよく過ごすためのルールが無数にある。学校に通っている人は学校で生活し、時には他者とぶつかり、先生に怒られる中でルールを会得して行くのである。

また集団でうまくやっていくテクニック、空気を読むだとか、挨拶だとか、気遣いだとか、時にはルールをうまく破るだとか、そういうものも多数身につけている。

人間は他者と繋がり、集団で活動することで繁栄してきた。ルールを守り、集団でうまくやっていくテクニックを持っていることは生きる上で重要なことである。

 

 

7社会において、ある程度信頼される

 

高校を出ている、もしくは大学を出ている、それだけで社会では一定の信頼を得ることができる。例えば学校行っていない人は未だに差別されているし、高校中退者への偏見も根強いものがある。

学校に通っていた。それだけである程度の信頼は担保されているし、社会の一員として認められるところがあるのである。これは学校に通っていなかったものからすると非常に羨ましい長所である。

 

 

 

 

以上、学校に通っていた人の長所を七つ書き出して見た。

これらの長所が自然に身につくのだから、学校という場はすごい発明だと思う。

 

また日本の学校に通っていた人は働く上で「集団で何かを行う」「決められたことを忠実に実行する」ということが非常に得意だと思う。それが長所であり場合によっては短所でもあるのだが。

 

 

さて、

これだけでは「学校行っている人すげー!」で終わってしまい、このブログの本意ではないところにたどり着いてしまうので

そのうち「学校に行っていなかった人の7つの長所」を描いてみようと思う。

 

 

評価経済社会の今、逸脱した人間はどんなキャラ作りをするように仕向けられるか。前置き。

常識と逸脱、いつだってこの二つが自分のテーマだった気がする。

 

罪を犯した、社会的に悪いとされることをした、やむを得ない事情があった、間違えてしまった、いじめられた。様々な理由で、悪いイメージのレッテルを貼られる可能性は誰にでもある。集団からハブられること、集団からハブられて当然だという風に扱われることは非常に辛く、生きづらい。

僕は不登校、高校中退、メンヘラという、社会的にそんなに好ましくない要素を持っていた。社会とどう付き合っていけばいいのか、なんで自分がこんなにもネガティブなイメージで見られないといけないのかって非常に悩んでた。

そして今思うことは「色々とネガティブな要素持っているけれど、社会とうまく関係作りながらやり直したい」ということだった。

 

どうしたら社会とまた繋がり直せるだろう?自分の罪を認めて反省する?自分の逸脱した部分を活かす?色々考えていたり、大学の勉強を思い返しているうちに、改めて感じた。

「逸脱した人間が社会と繋がろうと思うと、生き方、人間性がすごく制限されてしまう!」

 

 

 

思考は、周囲の環境、もっとよく言えば社会によって決定される

 

例えば発達障害を持つ子どもが「かわいそう」「役立たず」「協調性がない」みたいに言われる環境と、「シリコンバレーによくいるタイプ」「将来有望」「適切なケアをすれば普通に過ごせる、大丈夫」みたいに言われる環境、どちらで育つかによって、物事の見方、自己イメージなどあらゆるものが大きく変わるだろう。これは思考は周囲の環境によって決定されるということでもある。

詳しくはここでは述べないが、これは社会によって思考のパターンある程度決まってしまう、コントロールされてしまうということでもある。自分の意思で物事を決めていた、考えていたと思っていても、実はそれは社会的に用意されているパターンをなぞっているだけだった。ということは多々あると感じる。

住む場所も年代も違うけど似たようなこと経験した人間が全く同じことを考えていることはかなりの頻度で起こっているだろう。あれはまさにこの証明だと思ってて、思考のパターンが社会的にある程度決定されているからこそ起こりうることだと感じる。個々人が自由に思考をして意思決定を行なっているのであれば、もっとそれぞれの考えることはバラバラのはずだ。

 

これは何に対してもそう。逸脱した人間がどんなキャラを作らないといけないか、というテーマでも。

 

 

そもそもやろうと思ったきっかけはvalu

 

今valuってサービスが流行りまくってるじゃないですか。

あれは「人気や評価を貨幣と交換できる経済(評価経済社会ってやつ)」の極みだと思ってて、これからはそういう傾向がどんどん強くなっていくと思うんです。

他人からの評価がますます重要になってくるこの社会で「逸脱した人間、色々あって悪いレッテルを貼られた人間ってどう生きていけばいいんだろう」って思った。他人からの評価されやすい人が有利になっていくこの社会で、評価を受けにくい、応援されにくい人間がどう生きていくのがいいのだろう。

 

そんなことで、逸脱した人間が社会に入っていくために、自身をどう解釈、説明するか(どう説明することが可能か)のパターンを考察してみたいと思った。どう生きていくかのパターンと言ってもいい。

パターンを書き出す中で、どのパターンを採用するのがいいか、既存のパターンの中に自分や逸脱した人間がうまく生きれる方法がないのなら、新たなパターンを作り出すことはできないか。

自分をはじめとして、もう一度やり直したいと思う人間ってたくさんいると思う。もう一度やり直すことが難しい世の中に疑問を感じている人もいると思う。

確実に、「逸脱した人間が社会へと繋がるためにはどうしたらいいか」がこれから議論されると思うし、少なくとも僕は議論されるべきだと思う。だから自分なりに考えてみたい

 

というわけで、ぼちぼちやってきます。

 

 

表現が本当に苦手な自分が、表現できるようになる可能性を見つけた。

発達障害と犯罪について書こうと思ったんだけど、(間違いを犯しやすいのだから、間違いを犯す要因を取り除いて許すことが大事なのではないか、みたいなこと)

次のツイートに心を奪われたので、そっちについて書きます。

 

 

作文とか美術が本当に苦手だった。

 

chubby_haha
作文が書けなかった学習障害がある子。ずっと「やる気がない」「ふざけるな」と叱責され続け自信を失いかけてた時に先生が「書きたい事を言ってごらん、先生が書いてあげるから」というのをきっかけにどんどん素敵な作文ができあがっていった。適切な支援は、過小評価を覆し自信を与えてくれるだよね。
2017/05/29 16:51

 

 

あ、昔の僕だ

 

作文とか、心の中に思いついた絵を描くとかすっっっっっっっっごく苦手だった。「え、、何したらいいの?」って感じで頭がフリーズしたまま2時間も3時間も白紙のまま、動くことができなかった。

周りの子はぱぱっと自分の書きたいことを書いていたのに、自分だけはどうしてもできなかった。周りや先生に注意されたり馬鹿にされる中、自分のできることは困ってるポーズをとりながら「できない!助けて!」ってアピールすることだけだった。

小学校なっても、中学校なってもできなかった。中学校の時とか手先の不器用さも合間って、できなさ過ぎて嫌になって作品を破り捨てて帰った。(クソガキである。後日みっちり怒られました。)

毎回授業時間過ぎて、居残りで課題に取り組んでた。毎回どこかのタイミングで頭の中でイメージが完成して、筆を動かすことができるようになって、そうなってからは短時間で仕上げることができていた。考える時間:実際に取り組む時間=10:1くらいの割合だった。

なんで自分はこんなにできないんだろう?人の目を気にし過ぎているのか?自分の気持ちを表現することが怖いのか?疑問のまま、時が過ぎてしまった。そして美術や芸術が本気で嫌いになってしまった。

 

そして上記のツイートを発見。15年越しくらいに思った。

「そうそう!そう言って欲しかった!そういうサポートが欲しかったんだ!」って。

 

白紙に向き合っている間、自分は何も考えていなかったのではない。心に何も浮かんでいなかったわけでもない。もやもやとした何かはずっとあった。書きたい何かはずっとあった。

ただ、どう言語化したら、どう表現したらいいのか、わからなかったんだ。

さらに言えば、どう書いたら褒められるのか、正解なのか、それもわからなかった。

多分あの時も、こういうこと書きたい、表現したい。みたいなのを言って「それはこういうこと?」みたいに翻訳してくれる人がいたら、他の人と同じようにできたんだと思う。

 

 

上記のツイートを見てさらに思ったことがある。

「真っ白な場所に自由に描くのが苦手、これって僕の生きづらさの中心じゃないか?」

 

僕の苦手だったものをあげていくと

作文や美術(特に心の中にあるものを自由に書こう、みたいなやつ)

0→1で、その場にない新しい何かを考えること

会話、飲み会での雑談

初めて見るものに対しての対応

 

反対にできたものを考えると

論文、小論文

WEBデザイン

プログラミング

(この3つ、本質はルールに則って、既にあるものを組み合わせているだけだったりする。)

プレゼン

グループワーク

ルーチンワーク

昔から付き合ってる親しい友達との会話

仲がいい友達の似ている人との会話

初めて出会う人との自己紹介、会話

 

 

ここから

・自分の内面を表現するのがとても苦手、自分の外部にあるものを組み合わせるのは得意

・新しい場面は苦手、何度も経験してパターン化されたものは得意

・定型化されていないものは苦手、定型化されているものは得意

という自分の特徴が浮かび上がる。

 

自由に色々書くのは苦手、論文なんかは書くべきこと、書くためのルールがきちんとあるからできる

プログラミングはルールに則って、自分の外部にあることを組み合わせているだけだからできる

飲み会の雑談は定型化されていないからできないが、同じメンバーの会話ならある程度パターン化されているのでできる。(不安とか、色々絡んでいる気がする。)

 

 

そしてこれらの事実からわかることの一つは

 

自分はサポートさえあれば、表現活動ができるかもしれない!ということ

 

表現ってものにすごく興味を持っていた。けど自分にはできないと思ってた。

手先は不器用だし、自分の内面を描くことは苦手だし。美術の成績すっごく悪かったし。でも、表現したいって思いはすごく持ってる

 

自分の内面を表現するための技法とか、ルールとか、そういうものを学んだり、ツールを使うことで、自分は表現や芸術活動ができるんじゃないか。

さらに言えば、それで自分の内面を知ることができるんじゃないか。

そう思うと、今まで知らない自分を知れるようで、やりたかったけどできないと諦めていたことに挑戦できるようで、すごい楽しみ。

 

 

自分は何もしなかったのではない、心にモヤモヤした何かはあったけど、どう表現していいかわからなかっただけ。

この状況の解決策をぼちぼち探したい

 

疲れたので終わります

 

 

卒論を通して学んだ3つのこと

 

僕の人生で頑張ったこと、そして分かりやすい結果が出ているという意味で人に語りやすいのが、卒論だ。

 

卒論をそんな頑張った人ってそんないないかもしれない。学生時代無駄にしてない?と思われるかもしれない。でも、本当にこれだけは頑張ってよかったと思うし、頑張った分得るものは多かった。(多分何でもそうなんだろう。何でも極めれば得るものはある)

僕が卒論から学んだことを、3つ書いてみる。

 

 

 

 

1 1人には、限界がある。

 

卒論書き終わった後、真っ先に「僕の限界はここなんだ」と思った。

365日24時間自分のテーマについて考えてた。部屋は大量の社会学の本で埋め尽くされていたし、締め切り一週間前はカップ麺とお菓子を買い込んで部屋にこもっていた。たまに外に出たと思えばブツブツと社会学の理論を呟きながら散歩をし、Twitterは常に社会学のことでいっぱいだった。教室の黒板2枚に僕1人の文字でいっぱいになるまで理論を書いたし、ゼミで集まった時には同期に脈絡なく社会学の質問ぶつけたりして語り出したりしてた(ほんまにごめんなさい)

はっきり言って、気が狂っていた。それくらいやった。書き終わったとき、「僕の限界はここなんだ!こんな何も知らない小さな存在が僕なんだ!」って絶望した。

しかし現実には、僕よりもはるかにできる人、優れた人が多数存在する。そんな人たちに追いつくために、そしてもっとより良い論文を書くために、あれ以上、どう頑張ればよかったのか。

 

僕の答えの一つは、「誰かと協力すること」だ。

僕1人の限界はここだった。でも、例えば誰かと教えあったり、誰かに相談したり、勉強サークルに入ったりしてたら、もっと違う結果が出てたんじゃないか?と思う。

僕は自分の本心を誰にも言えなくて、誰とも相談せずに研究してしまった。思えばいつでもそうだった。1人で悩んで、抱えて、めちゃくちゃな努力をして解決しようとしていた。そして病んだり体壊して来た。もし誰かと関係を築いて、協力して行うことができていたら、僕はもっと楽に、体や心に負担をかけず上に行けたのではないか。

他にも勉強法とか効率とか体調管理とか色々要因はあるけど、一番はこれだと思う。1人でできないこと、越えられない壁は、誰かと一緒に乗り越えたらいいのだ。社会の存在意義ってそれだと思うし。

なお、「苦手だけど頑張って人と繋がろう!」と考えて安易に行動した僕は、完璧に距離感わかってないこじらせた奴になって新しい環境で爆死しました。誰か僕に人との繋がり方と一般常識を教えてください。後、自分のメンタルだったり性格だったり振る舞いだったりは解決しような。

 

 

2 研究は終わりのない壮大なプロセス

 

僕の限界はここだと思うと同時に、「社会学の0.00000000001%すら知らない」と感じた。社会学という学問領域ですらそうなのだから、僕は世界のことを何も知らないのだと思う。やってもやっても出てくるのは疑問点ばかりで、何も知らないことを思い知らされた。一生かけても、僕が知ることができるものは限られていると悟った。研究には、多分終わりがないのだ。というか終わりがどうやっても見えないのだ。

 

研究とはわかりやすく言うと、リレーのようなものだと思う。僕が読んで来たあらゆる本は、先人達が膨大な時間と命をかけて解き明かした知識の集合体だ。僕達は先人達が解き明かした知識を元に、先人達が説き明かせなかった物事を研究する。そしてそれを次の世代に託し、彼らが僕らができなかったことを解明していく。バトンを渡すように、知識は過去から未来へと受け継がれていく。そうやって、何世代もかけて世界の仕組みを解明していく。そうやって1人ではできないこと、知ることができないことを知っていく。

その壮大なプロセスが研究であり、それには多分終わりはないのだ。わからないことがあまりにも多すぎるのだから。

 

僕はこの経験を通して、それまで全く興味のなかった歴史を勉強しようと思った。社会、政治、人間、あらゆることは皆過去の積み重ねの上に今がある。一から自分で学ぶよりも、過去から学んだ方が効率がいいと気づいた。

そして、僕が全てをやる必要はなくて(できないし)、僕の後に誰かが続いてくれて、僕ができなかったことをしてくれたらそれでいいんだなって、素直に思えた。

 

 

 

3 いつかは真実にたどり着ける。

 

「そうだな・・・ わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ・・・近道した時『真実』を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?真実へ向かっているわけだからな・・・違うかい?」

ジョジョの奇妙な冒険第5部より

 

ジョジョの中で一番好きな言葉なんだけど、これはマジだと思ってる。

 

僕は社会学の中でも教育や学校の研究をしていた。詳細は割愛するが、そこに自分がどうしても知りたいこと、知らないと生きていけない何かがあると感じたからだ。何が知りたいかはわからなかったが、そう直感したからこそ文転してまで社会学部に入学したし、気が狂うまで必死で研究したのだと思う。

思い返せば全然平坦じゃなかった。研究する分野や専門を何度も変えて、大量の本を読んで、勉強方法も何もわからずがむしゃらに論文を書いて、挑戦しては失敗して、何でこんなことに学生生活捧げてるんだろう、もうこのテーマを研究するのはやめようって泣いて、苦しくて泣いて、先輩や教授と喧嘩して、途中で何度も何度も人に迷惑をかけた。無様だし、カッコ悪かった。後悔と反省点なら死ぬほどある。それでも「何かがある」という直感の元、突き進んだ。しかし、僕は自分の納得のいく答えを見つけることができなかった。それは卒業論文を書き終えた時ですら、そうだった。

だが、僕の研究はそこで終わりではなかった。社会人になり時が経つにつれ考えが整理されて、卒論のその先に考えを進めることができた。また新たに得た知識や経験を元にああも考えることができる、こうも考えることができると、自分の議論をさらに前に進めることができた。

卒論を書き終えてから1年ほど立った時、僕は自分の知りたいものにたどり着くことができた。その答えにたどり着いた時「ああ、これが自分の知りたいことだったのだな」と理解することができた。「知りたい何かがある」と思い始めて、6年もの歳月が過ぎていた。

 

 

辿りつこうという意志さえあれば、いつかは真実、自分の納得できる何かにたどり着ける。

だから僕は、心のどこかで生きることを諦めていないし、諦めたくないのだろう。

 

 

 

まとめてみて

卒業論文から大事なこと、たくさん学んでいるなと気づいた。

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、後悔、いろんなことがあるけど、僕は歩んでいきたい。

たどり着きたい何か、諦めたくない何かがあると感じるから。

 

不登校から見る現代社会。常識の崩壊と新たな選択肢。(途中で力尽きた)

不登校は、時折本人の主体的な選択として肯定されることがある。

 

これは歴史を紐解けば、何らかの事情により学校に行かなくなった(行けなくなった)ことで、社会や親から否定され続け、傷つけられた子ども達を守るための言説である。「僕たちは学校に行けなくなったダメな人間ではなく、いじめがあったり画一的な教育を推し進める学校には行かない方が得であると判断して、行かないことを選択したんだ」と自分たちを解釈し直し、発信することで、不登校児の自尊心を守ろうとしたのである。そしてしばしば、上記の言説を通すために、学校やそれに基づく現代社会が否定され、不登校は学校に行くよりもより良い選択肢として主張された。

 

昨今、学校に行かないことは「選択肢としてアリだ」という風潮が強まっている。不登校数は毎年増加しているし、「学校に行くことよりも、本人の幸せや選択を優先してあげて」というブログや記事もたくさん見るようになった。だがこれは、学校に行くことよりも行かないことの方が良いことが多くなったから選択肢として認められたのでは無い。むしろ逆である。社会の変化の中で、学校に行った方がいい根拠がなくなりつつあり、不登校を否定できなくなっているからこそ、起こっている現象なのである。

これまでの当たり前、常識の信頼性が薄れてきているから、当たり前では無いことを否定できない。

このようなことが、社会のあちこちで起こってきている。

 

 

このことは身近な会話でも確認できる。

最近意見を述べる時、特に相手や社会に対して言いにくいことを述べる際に「私は、こう思う」と言う人、その述べる人に対して「あなたがそう思うんやったら、それでいいんじゃない?」と言う人がすごい増えたと感じる。このような会話が増えたのは、多様な価値観が認められるようになったからとか、個人が自分の考えを主張することを求められるようになったとか、そういうことだけではないと思う。これまでの常識や社会が信頼できなくなってきたから、みんな自分の考えを述べるしかないし、相手もそう答えるしかないのではないだろうか。

 

先ほどの不登校のことを例に出して考える。例えば今

「私学校に行かない。朝起きれないし家で勉強した方が集中できるし成績伸びる」

という子どもがいたとする。おそらく昔なら「甘えるな!」「学校に行かないとちゃんとした大人になれない!」と言われたんじゃ無いだろうか。しかし、学校に真面目に通って就職しても経済的に安定できなかったり、居場所がなくなったりすることが多々ある現代ではどうだろう。学校に行っても幸せになれる保証がない現代社会ではどうだろう。選択肢として認められることがいくらかはあり得ると思うし、否定もしにくいのではないだろうか。

 

これは少なくとも教育の他に職業や家族、思想の領域でも起こっていると思う。フリーランスとか自由な生き方とか、新しい家族の形とか、様々な選択肢が肯定され、否定できなくなる。

 

 

 

(疲れてきたのでこの辺から適当になります。)

 

 

 

ただこれは、肯定され、否定できなくなるだけであって、新しく生まれる選択肢が「良い」わけではないと思ってる。今の段階だと今までどおりの常識で生きた方が安定的に幸せになれる可能性は高いと思う。今までどおりの常識で生きられない人が多いから、新しい選択肢が必要とされているのだけど。「私らしく」がその典型だと思う。私らしく生きることが良いかはわからない。

依然として不登校児の大多数は厳しい状況に置かれているしね。否定されなくなったからといって安易にそういう選択をして、後悔しても遅いよって話。

 

 

これからボコボコと新しい選択肢が生まれ、バンバン淘汰されていくのでしょう。個人的には自由に生きるとか、私らしく生きるとかいうのは近いうちにブームが去る気がする。その中で労働、教育、家族、思想の新しいパターンが構成されて、みんなに共有されるのだろうな。それがどんなパターンになるのかはまだはっきりと言えないし、そのパターンが自分にとって良いのかはわからない。

歴史を振り返れば(今は600年前の日本や、500年前のイギリスの大航海時代と酷似しているらしい)ヒントは得られるのだろうが、まだまだ手をつけられていない

この混沌とした正解のない世界で、自分にとっての良いを探して生きたいな。