人生詰みそうという不安。いや生き延びるけども。

いや、人生詰みそう

 

唐突になんだけど、そう感じることが2週間に1回くらいある。

あーもう僕終わりじゃね。どうにでもならなくね。って考えてしまうようなテンションになる時がある。

 

今の僕は

発達障害PTSD、虐待という世間の理解を得難いいろんなものを抱えつつ、職場や地域の偏見に怯えながら限りある資源(金と若さと時間)と法律と制度をギリギリまで行使してサバイバルしつつ、病気を治して再就職(もしくは職場復帰)を達成する。

という難題に挑戦しているわけなんだけど、これが本当に辛い。無理ゲー感半端ない。

気分は重い、体が元気になるのは遅い、人と話さない、情報も少ない、お金はゆっくりゆっくり減っていく。マジで不安になってきて「もう無理なんじゃないか」って気持ちになってくる。

 

いや今までだって色々乗り越えてきたんですよ。「お前それは無理だろう」って言われるようなことたくさんやってきたんですよ。高校中退して希死念慮と戦いながら無理だと言われていた大学に現役合格したりとか、高校3年間女子と会話したことなくて全く女性に免疫のない状態から超美人で巨乳の彼女捕まえたりとか、何も知らない状態から1日10時間くらい勉強してWEBサービス作ったりとか、教授から「そんなん無理じゃね?」言われるような研究計画立てて実行して大学院生より面白いって言われたりとか、メンタル崩壊して就活一次面接20連敗くらいしたところから超ホワイト企業に内定もらったりとか、命かけて論文書いて学部優秀賞もらったりとか、色々乗り越えてきた。筆舌に尽くしがたいほど辛いことがあったけど色々やってきた。(以上、自分の自尊心を回復させるための自慢)

twitterのフォロワーさんにも、現実の友達にも、僕より圧倒的にすごい人がいるからこんなん「しょぼ!!!」ってなるかもしれないけれど、僕の中でこれらは結構自信になってるし、友達からも「お前はなんとかなるよ。これまで普通の人にはできないことたくさんやってきたんだからさ」って言ってもらってる。まあこれまでも「無理!」って言われてたことをやり遂げてきたんだからいけるんじゃないかなって思ったりしてる。

(みんなが無理って思うだけで、やってみたら簡単だったことが多かったことは否めないけど)

 

でも言わせて、今度こそ詰んだかもしれない。そんな不安と戦いながら生きている。

 

気分沈むのは本当に辛いし、気分が沈んだら勉強もできないし、1人だから色々考えてしまう。

 

いや、詰ませる気は無いし、ていうか詰まないと思うし、結婚もしたいし遊びたいし海外にも生きたいから情けなく生き延びるんだけどね。あの手この手で絶対に生き延びる。

ただ「人生詰むかもしれない」という不安が強くて、吐きたくなっただけです。

 

 

もし無事再就職できたら、祝ってください。

再就職して2年以上働けたら、もっと祝ってください。

結婚して安定した家庭を築けたら、この上なく祝福してください。

 

 

 

 

人を嫌ってもいい理由

ずっと人のことを嫌いになることは、いけないことだと思っていた。

だから人のことを嫌いになることをなるべく避けていたし、「嫌だなあ」と思う人や自分のことが嫌いな人にでも好意を持って接しようとしていた。人に嫌われることは辛いし、痛い。そんな思いを人にさせたくないとも思った。

高校の時人をいじめまくって、授業中に騒いで、風紀を乱しまくってやつでも、自分のことが嫌いなやつでも、僕は相手のことを嫌いにならないように頑張っていた。

 

 

そうして過度までのいい子ちゃんで生きてきた僕だが、最近は思うのだ。

「人を嫌いになってもいい。むしろ幸せに生きるために人を嫌いになることは大事なのではないか」と。

理由を箇条書きで書いていく。

 

1 精神が持たない

まずはこれ。単純に自分が嫌いなやつ、そして自分のことが嫌いなやつのことを好きになろうとするのはしんどすぎる。例えばどうして悪意を持って自分を傷つけようとしてくる人間を好きになれるだろうか。その存在を肯定できるだろうか。不可能に近い。あっちからしても嫌いな奴に好かれて近寄られても鬱陶しだけだし。

自分の精神を健康に保とうと思ったら、「こいつ嫌だな」と思ったやつはできるだけ距離を取った方がいいのだと社会人になってやっとわかった。

 

2 嫌いな奴とは、どのみち関係が長続きしない

嫌いな奴とか、こいつ嫌だなーって感じる奴とは、頑張っても関係が長続きしないし発展しない。相手からしても嫌いなのだから近寄ってきてほしくないので、近づこうとしても上手くいかない。「こいつ嫌だなー」って思っている人間とはどのみちうまい関係が築けないのだ。

どうせいい関係を気づけないのだから、無理に好きになろうとせずにさっさと嫌ってしまって適切な距離を取って、お互いに精神の健康を保った方がいいと思えてきた。

 

 

3 嫌うことで、自分の価値観がはっきりする。

人を嫌いになることで、むしろ自分の好きや価値観が浮かび上がると思っている。

例えば僕は「人をいじめてお金をもらえるなんて最高やん!」(同僚の言葉)なんていう人は心から軽蔑してしまうし、怒ってばかりの人間も嫌い。大学の授業中に喋る人間は嫌いだし、自分のために他人を利用しようとする人間も、セクマイや発達障害など、マイノリティに理解がなかったり差別的なことをいう人も嫌だなあって感情を抱いてしまう。嫌いな人は他にも沢山いるし、とりあえず無意味に人を傷つけたり悪く言ったりする人間は嫌い。

でもここから、「人を傷つけてお金をもらうのは嫌だ」「穏やかな人間が好き」「大学の授業は静かに真面目に受けたい」「他人を利用したくない。他人に貢献できる人間がかっこいい」「マイノリティに理解がある人間が好き、そうありたい」「人を傷つけたり悪く言ったりしたくない」という価値観が浮かび上がる。人を嫌うことで自分の好きや価値観が浮かび上がってくるのである。

自分の生き方や価値観がはっきりしていくので、(適切に)人を嫌うことは結構必要なんじゃないかと思う

 

4 嫌いな人を見て、自分の行動を改めることができる。

人の振り見て我が振り直せ。って奴ですね。

あいつ嫌だな。と思うとき自然に「じゃあ自分はどうか?」って考えている気がする。で、だいたい相手の嫌いなところは自分にも当てはまってたりする。そうなると自分の行動を改めようと意識するようになる。

これが相手のことを嫌いにならないようにすると、「相手があれでもいいんだから、自分も自分のダメなところを直さなくてもいいやー」ってなる気がするし、自分はそうなる傾向が強かった。勝手に相手のダメなところを許して、自分のダメなところを許されてると思ってしまうところがある。どう生きるかは人の自由だけど、嫌われたくない人に嫌われたり、自分の成りたい姿から遠ざかるのはしんどいので、自分のダメなところを許さないためにも嫌なものは嫌というのは大事だと思う。

ああでも、これが行き過ぎると自分にも他人にも厳しい人が出来上がっていくのかなあと思ったりする。他人のダメなところを見て自分のダメなところを治そうとするように、自分のダメだったところを見て他人のダメなところを治そうとするような。そうはなりたくないな。

 

 

まとめると

精神的に楽

無駄な労力を使わなくていい

自分の価値観がはっきりする

自分の行動を改めることができる

 

ってところでしょうか。適切に他人を嫌うのはいいことではないかと思うのです。

 

個人的にはまず自分の周りを、自分がいいと思う人や自分が好きな人で固めて、それから自分の外側にいる認められない人や嫌いな人を理解しようとすればいいんじゃないかと思う。

嫌いな人や認められない人を自分の周りに置くのは違うし、好きになるように努力するのも不毛な気がする。

 

関東か、関西か

引っ越しをしようと思っている。
 
 
今いる場所で生きるのがどうしてもしんどくて(昔いじめられてた、良くも悪くも閉鎖的で排他的な村社会、最新の情報や流行が入ってこない。価値観、選択肢の幅が狭い、発達障害への支援がとても薄い)
別の場所に引っ越そうかと決めた。
 
そして自分のことを顧みた結果(地方、田舎は好きだけど飽きてしまう。新しい刺激が好き。人間的に色々アレ。いろんな人との出会いが欲しい、あちこちに旅がしたい。最新の知識が欲しい等)
関東か、関西か、まで絞れてきた。
 
 
ただ、ここからがすごく難しい。関西か、関東か、なかなか決めきれない。
もうぶっちゃけ仕事がある方へ行こうかとか、その時の直感で決めようかとか考えていたりする。
 
でも自分の性格上、最後の最後まで考え尽くさないと納得できないので、ここで色々考えてみようと思う。
 
 
 
関東と関西、二つとも好きなのだけど何がいいか?
 
 
関西は何がいいかというと、まず自分の好きなところが身近にあるところが大きい。
「好きな場所はどこか?」と言われると「瀬戸内海と京都」と即答する。
 
瀬戸内は大学の時のとても好きになった。四国に行ったときこんなに綺麗な海が日本にあるのか!と感動したし、瀬戸内に沈む夕日は日本で一番綺麗なんじゃないかと個人的には思っている。また瀬戸内芸術祭のようにアートを大切にする文化があってそれがとてもいいと思った。
京都は昔から憧れていた町。お寺や神社が好きなのもあるし、京都を包み込む雅な空気や時間がとても好き。あそこにはほんと不思議な何かがあると思う。
 
瀬戸内と京都。共通していることは自然と人が高度に調和した美しさがあるということだと思う。
自分もそんな雰囲気や精神を持ちたいし、そんな環境で生活していきたいと思う。静かで力強い、内側から自分を熱くする、変えていくような美しさ。これは東京にはないものだと思うし、ある種絶対的なものだと思う。
この2つの地域ともっと縁深くなりたいし、ここがあれば1人でも楽しめそうだなあって思った。
 
他にも異文化が混じり合い、気品を漂わせる神戸や人情や人間の清濁混ざった大阪も好き。
あと「人生に疲れたら四国に行く」と決めてあるので、四国にすぐ行けるのもポイントが高い。四国も移住考えたほど好き。
さらに家賃や税金、物価が安いのがいいね。モノにあまりこだわりがない方だから助かる。
 
懸念点としては、大学時代に色々やらかしてしまったこと。病んでて多方面に迷惑をかけたのでそれが何らかの形で将来に返ってこないか心配だったりする。人がとても多いのでなんとかなるかもだけど。
 
まとめると人情や自然との調和、そして地域のつながり。それらがありながらも都市として多くの人や情報が行き交う関西ってすごくいいなと思ってる。
 
 
 
では関東はどうか
 
関東の魅力は、何と言っても人や情報、仕事や価値観などの選択肢の多さだと思う。
何かの記事に「東京は楽しい!毎日新しい刺激や出会いがある。なんでもあって、何にでもなれる気がする」というコメントがあったのだが、まさにその通りだと思う。
関東にはなんでもある。文化、ファッション、芸術、学問、ビジネス、政治、テクノロジー、あらゆるものの頂点や最先端が東京にあって、それらに触れるチャンスが極めて大きい。ネットを見ていても「面白そうだなあ」と感じるものはみんな関東だ。
また東京や横浜の人工的な街並みはとても好きだしわくわくする。どこに行っても人やお店があって賑わっている。昔テレビの中にあった光景がそのままそこにあってそれが楽しい。
とにかく刺激にあふれていて、活気がある。
 
人や仕事は単純計算で大阪の1.5倍はあるし、面白そうな人、活動という意味では関西の倍はいるんじゃないかと思う。価値観も生き方も多様で、どんな人にも居場所があるのが関東じゃないかとも。
そんな場所に一度は住んでみたい。
あと発達障害とか、そういうものの支援がいちばん進んでいるのもここ東京だと思う。
 
懸念点としては、多くの友達が「東京は住む場所じゃない」と言っていることだ。
満員電車、高い家賃や物価。そういうものがきついらしい。確かに疲れそうな場所だなあと思うし、他人と自分を比較して色々としんどくなりそうではある。そういや友達に「お前は自然がないと生きていけないから都会にずっといると干からびそう」って言われたっけ。
刺激や成長、キャリアを最優先に考えるのならあの街はいいのかもしれない。しかしあの街で僕は駆け上がるんだ!みたいな気持ちもないし、どちらかというとまったりのんびり暮らしていたくて、そのペースのできる範囲でいろんな刺激を受けたいって感じだし。
 
そして人工的で、自然がない。人工的なのはすごく楽しいしそれは魅力なのだけど、自然と人間の調和がないのが残念だなあと感じる。
 
 
 
まとめると
 
瀬戸内や京都の近くに住みたいし縁深くなりたい
自然と人間の調和した美しさが欲しい
アートや文化を大事にしたい
でも人との出会いや最先端の刺激が欲しいし、その中でいろんな学びを得たい
 
って感じなので
 
 
好きな場所がある関西に住んで、刺激や学びをもらいにたまに東京に行く。
くらいがちょうどいいのかもしれないと思った。
 
 
東京への憧れを消すために、タイミング見て東京に長期滞在してみるのもありかなあ。18切符とか使ってさ。
 
仕事が決まっていないので、何を言っても机上の空論なのだけど。
転職活動したり、人生考える上で大事なことなので、ここにまとめとく。

大学がいろんな意味ですごい奴ばっかだった話

自分はそこそこすごい人間だと思っていた。

勉強はそれなりにできるし、高校辞めて現役で大学に入学して地元で「奇跡だ」「あいつやべえ」みたいな扱いされて自分は中々すごい人間なんじゃないかと思っていた。

 

しかし、それは違った。

世の中には、というか大学や社会には、僕なんかよりもはるかにすごい奴、とんでもない奴らがたくさんいた。

 

忘備録として、書いておきたい。

世の中には、やべえ奴らがたくさんいるのだと。

そして、結構どんな生き方でもありなのだと。

 

 

 

 

大学で出会ったすごい奴ら

 

○ずば抜けて優秀な人たち

「トイック900点越え余裕。950点からが本番。」

「ドイツ、イギリス、グアム、あちこちに海外旅行、留学行ってきたグローバル人材」

「超大手企業のインターンで優勝して100万円もらう。そのままシリコンバレーだかどっかに連れて行ってもらう」

「普通に部活して普通に勉強して普通に阪大入った。それが普通だと思ってたしそのまま外資コンサルにでも行くのが普通だと思っていた」

外資系メーカーなんかに就職しちゃう」

「営業のインターンして学生にして5000万円の利益を上げる」

「日本の名だたる大企業に片っ端から内定もらって全部蹴ってフリーランスになった」

「株で自分が遊ぶ金くらいは稼ぎ切った」

「真面目にコツコツ勉強して、超安定超大手企業に内定もらって勤める」

「スポーツ全国大会優勝」

 

○自分の道を突き進む人たち

「柔道日本一、柔道のために大学を退学し、東南アジアで修行」

「チャリで日本一周した」

「大学休学して世界一周、紛争地帯とかいろいろ回る」

「大学を卒業後、音楽の道へ」

「大学を中退して、音楽の道へ」

「大学を休学してその道のスペシャリストの元で2年間働く、その後大学院で自分のやりたいことの研究をする」

「学生にして巨大NPOの幹部」

「東北の被災地ボランティアに全力を注いで、被災地から個人名で表彰される」

「バイトして金貯めて、夢のために専門学校へ。夢が叶わなかった時のために大学にもダブルスクールで通う」

「大学に通いながらバーを経営」

性的少数者の居場所作りの活動を行い、啓発活動にも取り組んでる」

 

○いろんな環境、境遇を生きる人たち

「親が会社の社長」

「金持ちでめっちゃ美人でめっちゃ性格良い、二次元から出て来たようなお嬢様」

「カナダに留学してから大学来た」

生活保護家庭で生まれ虐待されながらも勉強して大学まできた」

「高校までヤンキー、そっから250万貯めて大学へ、そのまま広告代理店大手就職」

「大学で病んで辞めて通信制大学に転学、そこで勉強して自分のなりたいものへ」

「15歳で家出して、違法風俗で働いてなんとかサバイブしてきた。夢を叶えるために今も風俗で金貯めている。」

「学費や生活費みんなキャバクラで働いて稼いで、大学に通ってる」

「中学卒業後家出してホームレスになり、そこから大学に来る」

「7年間引きこもってたけど大学に来た」

「大学入って一度やめて引きこもって、また大学に入り直した」

村八分にされたり親から性的虐待受けたりして、自分の存在意義に悩みながらも自分にしかできないことを考えて、前向きに生きてる」

「20歳まで生きれるかどうかわからないような重度の障害を持って生まれて、えぐい差別といじめを受けて大学にきたけど、悩みながら働いて、前に進んで歩いてる」 

 

…思いつく限り色々書いてみたが、いかがだろうか。いろんな人がいるなーと思いません?

これはまだまだ僕の知ってる範囲内で、広報誌とかニュースとかみてる限りもっともっといろんな人がいるんだと思う。他大学とかに目を向けてみると同い年の人が起業してたり、何十億も稼いでたり、日本のあちこちを自分の足で歩いて旅してたり、もっとすごい人がいっぱいいる。

 

 

どんな境遇でも生きていいし、自分らしく生きれたらそれはかっこいいのだと思う。

 

でもこれだけでも少しわかると思う。

世界には、すごい人たちがいっぱいいるんだということと、

人生に正解なんてないんだってこと。

 

田舎の高校でそこそこ頭良くって、学校行ってなかったことがすごいコンプレックスで、人生終わった死のうくらいに思ってて、高校辞めたけど大学に入学した程度のエピソードが自分の持つ1番すごい話で、人間の価値を図るモノサシが「偏差値」と「部活」しかない、

そんなちっさい自分にとって、数々の出会いは本当に衝撃だった。

 

世界には、自分のモノサシの上限をはるかに超えたとんでもない人がたくさんいる。

自分のモノサシにないすごさ、強さを持っている人が沢山いる。

世間のモノサシや常識ではなく、自分の信じる道を進む人たちがいる

そして、いろんな境遇で生まれて、それでも生きている人が沢山いる。

 

 

世間的には、というか自分の中では「いい大学出ていい会社入ってこそ人生」みたいなものが根強く残ってて、それを中心とした価値判断をしてしまうのだけれど

多分どんな不幸な境遇でも、世間や自分のモノサシからずれた生き方することになっても、捻くれずに前を向いて自分の人生を歩けたら、

それはかっこいい生き方なのだと思う。

 

そういうことを学んだ

 

 

 

今生きづらい人は、大学に行ってみたらいいのかもしれないし、

大学を卒業した人たちは、大学を思い出してみたらいいのかもしれない。

あそこには、想像を超えたような人や出会いが沢山あったはずだ。

そういう出会いやそういう人と同じ場所にいた、という事実が自分を変えていくこともあるのかなと思う。

 

以上、忘備録でした。

 

 

不登校という言葉がそんなに好きじゃないし使いたくない。

不登校とか登校拒否とか、実はそういう言葉をあまり使いたくなくなった。

ただ一般的に多く使われているのは不登校という言葉なのと、不登校.comの語感がいいという理由でブログのタイトルにしている。

 

 

不登校とか登校拒否とかそういう言葉って、やはりネガティブなイメージが付きまとっている。怠けてるとか、甘えてるとか、弱いとか、コミュニケーションが苦手とか、病んでるとか、将来引きこもりになってしまうとか。そういうの。

不登校という言葉によって、学校に行っていた人は学校に行かなかった人たちに対してそのようなネガティブな目線を向けてしまうし、学校に行かなかった人たちは自分たちを不登校というネガティブな存在だと定義してしまって落ち込んでしまう。そんな現状があると思う。

 

 

学校に籍を置いているのに、学校に行かない人には様々な理由がある。

 

めんどくさい。お金がない。病気で休まないといけない。メンタルがしんどくなってしまった。いじめられて学校に行けない。発達障害や人と違ったところがあって学校にどうしても馴染めない。疲れ果ててしまった。

自分から学校に行かないことを選択した人も、本当は学校に行きたいけど学校側に課題があって行けない状態にある人も、自分の力ではどうしようもなくて学校にいけなくなってしまった人も、学校に行かないという行為が必要な人もいる。

そういう人たちをネガティブなイメージを持つ言葉で一括りにしてしまうのはどうなんだろう?何か別の言い方や括り方はないのだろうか。

 

学校に行っていない人には、いろんな人がいる。いろんな事情、思いを抱えた人がいる。学校に行っている人に、いろんな人がいるように。

そりゃあ中には「それはどうなの?」って人もいるけれど、それは学校行ってる人の中にもいるだろう?

そう思って、不登校とか登校拒否とか、そういう言葉に当てはまる人のことをただ「学校に行ってない人」と捉えたらどうかと考えている。ポジティブな意味もネガティブな意味もなく、ただ「学校に行っていない人」。

 

学校に行っている人と、学校に行っていない人は人体の構造的にも、精神的にも、本来何の違いはないはずだ。ただ、この社会の都合として学校に行っていないことは悪いこととされている。そして学校に行っていない人にはネガティブなレッテルが貼られ、時には偏見の目で見られ、時には差別される。そのネガティブさが不登校という言葉から醸し出されるイメージに現れていると思う。

だから不登校という言葉に違和感を覚えたり、使いたくなくなったのだと思う。現実はそこに(なんらかの事情もあって)学校に行っていない人がいるだけだ。

 

このブログの目的の1つとして、「学校に行っている人と、学校に行っていない人が共に生きる社会を考える」というものがある。そのような社会になるためには学校に行っている人も学校に行っていない人もどちらも肯定される社会であるべきだと考えている。しかし現状として、学校に行っている人が正しく、学校に行っていない人は間違っているという状態がこの社会には存在する。

不登校ではなく「いい悪いは別として、ただ学校に行っていない人」と捉える。わずかなことかもしれないが、このような視点、考え方はそのような状況を打開する1つの切り口になるんじゃないかと思ったりしている。

  

 

 

 

 

当たり前すぎてわからない。学校に通っていた人の7つの長所

「学校に真面目に通えてた人って、実はそれだけでめっちゃ優秀なんじゃないか?」

 

日本に生まれたらほとんどの人は学校に通う。小学校、中学校、高校、人によってはその後大学や専門学校に進学する。

彼らは毎日授業を受け、スケジュール通りに動き、ルールを守り集団行動をとる。帰ってからは宿題に取り掛かり、合間に友達とLINEしたり遊んだりして人間関係を築いていく。そんな彼らは実はとんでもなく優秀なのではないだろうか。少なくとも僕には無理だった。

 

というわけで、学校に通っていた人の長所を七つあげてみようと思う。

 

 

1人間関係を築くのがとてもうまい

 

学校に通っていた人は、人間関係を築くのがとてもうまいと思う。

 

まず毎日人と会って会話しているため、会話のバリエーションやスキルが学校に行っていない人に比べてレベルが高い。相手を喜ばせる、人間関係を築くための道具をたくさん持っているのである。

また、毎日住んでいる地域が同じ、もしくは近いというだけで性別も性格も親の職業も所得も趣味も好き嫌いも違う人が集められた教室という空間に通っているだけあり、多様な人の中で人間関係を作るスキルがとても高い。

見た目や話した感じから自分と気が合う人を見極め、仲良くなれそうな人には近づき、そうではない人とは距離をおくということができるようになるのである。これは集団で活動するにあたって非常に大事なスキルである。

 

学校に通っていた人はこのように、人間関係を円滑にするためにスキルを多く持っているのである。

 

 

2規則正しい生活を送ることができる

 

学校は毎日同じスケジュールで過ごす。

同じ時間に授業を受け、同じ時間に給食を食べ、同じ時間に部活動を行い、同じ時間に帰宅する。このような毎日を送っている間にいつのまにか「規則正しく、健康な生活習慣」と「予定をたて物事を効率的にこなす力」が身についてしまうのである。

 

この2つは物事や仕事を効率的にこなす上でとても重要な力となる。それが初めからある程度身についているのだからすごい。

 

 

3多様な価値観を身につけている。

 

前述したように学校には多様な人がいる。性格も、所得も、趣味も、好みも、得意不得意も違う人たちが集まっている。大人になるとこれほど多様な人が集まる機会は中々ないし、自分で友達を作ろうにもどうしても似た人が集まってしまうので、学校は非常に貴重な場であると言える。

多様な人が集まる中で、多くの考え方や生き方を知り、いろんな人がいることを肌で知ることができる。また多くの人と自分を比較することで自分がどのような人間なのかを知ることができる。学校がなければ絶対に知り合わなかった価値観、人もたくさんいるだろう。

多様な人と繋がり、中には友好関係を結ぶことで、自分の世界を広げ、成長することができる。学校は多様な価値観に触れることができる非常に恵まれた場なのである。

 

 

 

4我慢強い

 

義務教育ではわずか6歳の時から授業を受け、1日中机に座って勉強することを求められる。時にはやりたくないこと、嫌なこともやらないといけない。また嫌いな人と接する機会も多い。

その中で鍛えられた忍耐力と集中力は半端なものではない。嫌なことも我慢してやり続ける力。休憩をとりつつも長時間何かに集中する力が養われるのである。

将来仕事をする時にも、ここで鍛えた忍耐力と集中力は非常に約立つだろう。仕事では嫌なこともやらないといけないし、何よりも長時間集中できるというのは非常に優れたスキルである。

 

5継続的に努力ができる

 

学校では日々の授業の他に、毎日宿題や課題が出される。これにより日々継続して努力する習慣が身につくのである。

塵も積もれば山となる。継続して努力することにより、人は大きな目標を達成することができる。その基本的な姿勢が最初から身についているのである。

継続的に努力する方法を知っているというのは非常に重要なことである。人には皆「こうなりたい」という願望を持っている。それを叶えるための1番の方法が「継続的に努力すること」だ。努力する姿勢、習慣が身についているというのは自身の夢や人生において大きなメリットになりうる。

 

 

6ルールを守り、集団で生活することができる

 

学校、そして社会には集団で気持ちよく過ごすためのルールが無数にある。学校に通っている人は学校で生活し、時には他者とぶつかり、先生に怒られる中でルールを会得して行くのである。

また集団でうまくやっていくテクニック、空気を読むだとか、挨拶だとか、気遣いだとか、時にはルールをうまく破るだとか、そういうものも多数身につけている。

人間は他者と繋がり、集団で活動することで繁栄してきた。ルールを守り、集団でうまくやっていくテクニックを持っていることは生きる上で重要なことである。

 

 

7社会において、ある程度信頼される

 

高校を出ている、もしくは大学を出ている、それだけで社会では一定の信頼を得ることができる。例えば学校行っていない人は未だに差別されているし、高校中退者への偏見も根強いものがある。

学校に通っていた。それだけである程度の信頼は担保されているし、社会の一員として認められるところがあるのである。これは学校に通っていなかったものからすると非常に羨ましい長所である。

 

 

 

 

以上、学校に通っていた人の長所を七つ書き出して見た。

これらの長所が自然に身につくのだから、学校という場はすごい発明だと思う。

 

また日本の学校に通っていた人は働く上で「集団で何かを行う」「決められたことを忠実に実行する」ということが非常に得意だと思う。それが長所であり場合によっては短所でもあるのだが。

 

 

さて、

これだけでは「学校行っている人すげー!」で終わってしまい、このブログの本意ではないところにたどり着いてしまうので

そのうち「学校に行っていなかった人の7つの長所」を描いてみようと思う。

 

 

評価経済社会の今、逸脱した人間はどんなキャラ作りをするように仕向けられるか。前置き。

常識と逸脱、いつだってこの二つが自分のテーマだった気がする。

 

罪を犯した、社会的に悪いとされることをした、やむを得ない事情があった、間違えてしまった、いじめられた。様々な理由で、悪いイメージのレッテルを貼られる可能性は誰にでもある。集団からハブられること、集団からハブられて当然だという風に扱われることは非常に辛く、生きづらい。

僕は不登校、高校中退、メンヘラという、社会的にそんなに好ましくない要素を持っていた。社会とどう付き合っていけばいいのか、なんで自分がこんなにもネガティブなイメージで見られないといけないのかって非常に悩んでた。

そして今思うことは「色々とネガティブな要素持っているけれど、社会とうまく関係作りながらやり直したい」ということだった。

 

どうしたら社会とまた繋がり直せるだろう?自分の罪を認めて反省する?自分の逸脱した部分を活かす?色々考えていたり、大学の勉強を思い返しているうちに、改めて感じた。

「逸脱した人間が社会と繋がろうと思うと、生き方、人間性がすごく制限されてしまう!」

 

 

 

思考は、周囲の環境、もっとよく言えば社会によって決定される

 

例えば発達障害を持つ子どもが「かわいそう」「役立たず」「協調性がない」みたいに言われる環境と、「シリコンバレーによくいるタイプ」「将来有望」「適切なケアをすれば普通に過ごせる、大丈夫」みたいに言われる環境、どちらで育つかによって、物事の見方、自己イメージなどあらゆるものが大きく変わるだろう。これは思考は周囲の環境によって決定されるということでもある。

詳しくはここでは述べないが、これは社会によって思考のパターンある程度決まってしまう、コントロールされてしまうということでもある。自分の意思で物事を決めていた、考えていたと思っていても、実はそれは社会的に用意されているパターンをなぞっているだけだった。ということは多々あると感じる。

住む場所も年代も違うけど似たようなこと経験した人間が全く同じことを考えていることはかなりの頻度で起こっているだろう。あれはまさにこの証明だと思ってて、思考のパターンが社会的にある程度決定されているからこそ起こりうることだと感じる。個々人が自由に思考をして意思決定を行なっているのであれば、もっとそれぞれの考えることはバラバラのはずだ。

 

これは何に対してもそう。逸脱した人間がどんなキャラを作らないといけないか、というテーマでも。

 

 

そもそもやろうと思ったきっかけはvalu

 

今valuってサービスが流行りまくってるじゃないですか。

あれは「人気や評価を貨幣と交換できる経済(評価経済社会ってやつ)」の極みだと思ってて、これからはそういう傾向がどんどん強くなっていくと思うんです。

他人からの評価がますます重要になってくるこの社会で「逸脱した人間、色々あって悪いレッテルを貼られた人間ってどう生きていけばいいんだろう」って思った。他人からの評価されやすい人が有利になっていくこの社会で、評価を受けにくい、応援されにくい人間がどう生きていくのがいいのだろう。

 

そんなことで、逸脱した人間が社会に入っていくために、自身をどう解釈、説明するか(どう説明することが可能か)のパターンを考察してみたいと思った。どう生きていくかのパターンと言ってもいい。

パターンを書き出す中で、どのパターンを採用するのがいいか、既存のパターンの中に自分や逸脱した人間がうまく生きれる方法がないのなら、新たなパターンを作り出すことはできないか。

自分をはじめとして、もう一度やり直したいと思う人間ってたくさんいると思う。もう一度やり直すことが難しい世の中に疑問を感じている人もいると思う。

確実に、「逸脱した人間が社会へと繋がるためにはどうしたらいいか」がこれから議論されると思うし、少なくとも僕は議論されるべきだと思う。だから自分なりに考えてみたい

 

というわけで、ぼちぼちやってきます。