どんなに苦しくても、生きていればなんとかなると思う。

「あんた学校辞めたり、学校行かない子に勉強教えたり、その親の支援したり、研究したり、いろいろやってきたんじゃん。それら全部整理したら価値にある何かになると思うよ。」

 

友達にそんなことを言われた。ごく最近。

あと「不登校でも別に大丈夫だよ!生きてていいよ!みたいなやつは広がりすぎてもうみんな飽きてると思うから、いざ学校行かなくなった時にどうすればいいかを考えな」とも言われた。その通り過ぎて耳が痛いし、その辺のことをまとめきれていない自分がいる。

 

という訳で、自分のやってきたことから何か価値を提供できないかなと思って、いろいろまとめてる。そしてこうやって発信してみる。

 

 

はじめに学校にいけなくなったり、何か辛い状況に陥ったとき、大事なことってなんだろうって考えてみる。自分の経験から思い返してみたり、少ないながらも今まであってきた人達を思い返して。

 

そしたら、

1番大事なことは死なないことで

2番目に大事なのは捻くれないこと

なのかなって思った。

 

 

 

学校に行けなくなってしまった経験がある人は、自信を無くしていたり、ちょっと捻くれてしまったりしてしまう人が多いと思う。

というか、あれだけ不登校者に対するネガティブイメージが蔓延している中で自信を無くすな、捻くれるなって方が無理だと思うし、えげつないいじめとか、ドラマの世界かよって思うような問題にぶち当たってしまった人も少なくない。

僕の過去を思い返してみても、学校では「あいつどうしたの?」みたいな目で見られて、家では学校に行かないことを責められて、どこにも居場所がなかった。ネットでもまだ不登校への理解とか広がってなくて、田舎だからそういう子に向けた支援もなかった。毎日毎日自分はどうなるんだろうかと怯えながら生きていた。同じような状況で生きていた人は少なくないと思うし、あの状況で自尊心を失うな、捻くれるななんて無理だと思う。

結果として僕は超捻くれた。もともと捻くれてたけどさらに捻くれた。「自分の人生が終わった」「自分はダメだ」「自分の人生を取り返すために人と違うことをしなければならない、戦わないといけない」「自分はダメじゃないと証明しないといけない」と強く強く思い込んだ。それが後々の行動に少なくない影響を与えて、結果として自他共に不幸な結果になってしまったと思う。

 

本当は何も終わってないし、何も失っていないし、何も奪われてないし、特別に何か頑張らないといけない訳でもなかったのだけど。それに気づいたのはつい最近だ。

 

そんな状況だから、自信を無くしすぎて死にたくなってしまう子や、自分なんてダメなんだって捻くれてしまう子も出てくる。家庭教師してた時「先生、僕の人生もう終わりなんですか」って泣きながら相談されたこともあった。本当にみんな悩んでたし、苦しんでた。多分僕には想像もつかないくらい。

 

 

「学校に行けなくなった時どうすればいいか」

そんなことを問いかけられた時、色々と言えることはある。

好きなものに熱中したら?とか

学ぶことはやめない方がいいよ、とか

価値観を広げるために、旅に出たり大学を目指したりするものいいよ、とか

こんな支援施設やあんな支援施設があるよ、とか。

 

でも1番大事なのは何だろうと思ったら、上にあげた

死なないことと、捻くれないことなんじゃないかと思う。

 

なぜか。

世の中が常に進化していて、何もしなくてもマイノリティは生きやすくなっていく、もしくは、自分が生きやすくなるチャンスを掴みやすくなっていくからだ。

 

少なくとも、僕は生きていてよかったなと思う。

2010年に不登校というマイノリティ属性を得て、それから7年生きたが、この7年だけでも様々な動きがあった。

 

SNSとインターネット、スマホが普及し、あらゆる情報が集めやすくなり、離れた人とも気軽につながれるようになった。結果これまででは手に得れることができなかった解決策を得られるようになった。そして世の中には色んな人がいることが伝わっていった。不登校やマイノリティに関する情報もたくさん手に入るようになった。

 

2011年の東日本大震災が一つの契機となって、社会を良くしていこう、変えていこうとする活動が活発になった。結果として生きづらさを抱えた人たちに向けたサービスや仕組みがたくさん開発されるようになっていった。

今この瞬間にだって、マイノリティや苦しんでいる人が生きやすくなるような仕組みやサービスが産声を上げ、水面下で広がっている。

 

2015年にはアメリカ合衆国同性婚を認めたことでセクシャルマイノリティの理解が一気に進んだし、日本の一部の市町村で同性愛者のパートナーシップを認める動きが出てきた。

2016年には文部科学省不登校を問題と見なすことを撤回した。

2017年にはNHK発達障害者の特集を組み放送するなど、発達障害精神障害への理解も深まっていっている。

結果として世の中は、自分と異なるものに対して寛容になってきていると思うし、これまで生きづらかった人たちが少しだけ生きやすくなったのではないかと思う。

 

僕はこの7年間何もしていない。ただ確実に生きやすくなった。技術が進歩し、研究が進み、社会が変わったからだ。世の中が常に進化しているからだ。

 

こんな風に、何もしなくても勝手に生きやすくなるようなことはこれからどんどん起こっていくのだと思う。

だから今苦しい状況にある人は「自分なんてダメだ」とか「自分はもう終わりだ」なんて思わずに、自分の人生や自分自身を投げやりにせずに、とりあえず生きてみてほしいと思う。前に進んでほしいと思う。結構なんとかなるから。

自分の苦しさを軽減できるものがこの世界のどこかに既にあるかもしれないし、それは近い未来に用意されているかもしれない。自分が生きやすくなるそのチャンスを掴むために、捻くれずに生きていてほしい。

 

 

 

 

 

苦しくても、捻くれずに生きること。

 

これは不登校やマイノリティだけに大事なことじゃなくて、全ての人にとって大事なことだと思う。

 

生きていれば誰でも、どうしようもなく生きづらくなる場面に直面する可能性がある。目も当てられないような、生きるのをやめてしまおうかと思うほど苦しい出来事が起こる可能性がある。

それは交通事故や震災のようなもので、どんなに頑張っても避けらないこともあるし、何年も続くときがある。

 

でも生きていれば、生き延びてさえいれば、楽になる可能性があるのだ。楽になるチャンスがやってくる可能性があるのだ。

希望が無いと思って捻くれて、自分で自分の可能性を閉じてしまったり、自分や誰かを傷つけたりするのだけはしない方がいいと思う。自分で自分の人生を壊すのは辛くなるだけだ。

希望はあるから、前に進んでいったらいいのだと思う。

 

 

 

次の職を当てもないし、まだまだ病気の最中だけど、これが僕の人生で学んだことだから

捻くれずに前に進んで行きたい。

いつかこの経験で得たことを、誰かに価値として提供できるように。

学校に行く意味は、信用資本を稼ぐことだと思う

学校に行く意味ってなんだろうってずっと思ってた。

 

勉強なら塾やネットでできる

友達も学校に行かなくても作れる

ルールや社会性もクラブやサークルで身につく

 

そう考えると学校に行く意味なんて究極ないのではないだろうか。

別のもので代替可能なのではないだろうか。むしろ学校の外の方が得られるものが多い場合もあるのではないだろうか。

 

それでも学校に通った方がいい、というのは代替の日本人が思うことなのではないだろうか。

よくわからないけれど学校に通っていた方が何かといい、と体感的に思っている人が多いのではないだろうか

 

私たちは、学校で何を得ているのか。

なぜ私たちは、学校に行かないといけないと考えているのだろうか

 

僕はこれらの問いに次の視点から答えてみたい。

「学校に行く意味は、信用資本を稼ぐことだ」

 

信用とは

 

しん‐よう【信用】

[名](スル)
確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を信用する」
それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「信用を得る」「信用を失う」「信用の置けない人物」「店の信用に傷がつく」
現在の給付に対して、後日にその反対給付を行うことを認めること。当事者間に設定される債権債務の関係。「信用貸付」

デジタル大辞泉より

 

信用とは上のような意味を持つ言葉だ。

ざっくりと言うのならば「過去の行いから、信頼できると判断すること」だと思う。

 

学校に行く意味は、勉強したり、社会のルールを学んだり、友達を作ったりするだけではなくて、社会的な信用を得ることでもあると思う。

 

例えば高校の卒業証書は高校卒業程度の学力と社会的スキルを持っている証明になる。それはそれだけの社会的な信用を得ていると言い換えることもできる。

そして高校卒業という資格を持って、就職したり、大学に進学したりしている。これは信用という資本をキャリア(経済的資本、人的資本、関係的資本)に変換しているとも言える。

 

この国ではほとんどの人間が当たり前のように学校に行き、卒業していくので気付きにくいが、学校に行き、卒業するということは社会的な信用を得る行為でもある。

 

学校に行くことで得られる信用資本によって獲得できるものは多い

 

就職、進学に使えるのは前述した通り。学校に行って、卒業していると人間関係においても、「この人はまともな人間だ」という証明になる。

私たちは学校に行くことで「私は学校が保証した、まともな人間だ」という信用を得ているのだ。

 

 

では学校に行かなかった人はどうしているか?

学校に行き、卒業した人はそれにより信用資本を得ていることは前述した通りだ。

少なくとも現代社会はそのようなシステムとなっている。

 

では、学校に行かなかった人、行けなかった人は働いたり、人と関係を結ぶにあたってどうしたらいいのか?

おそらく、下の2つのどちらかの戦法をとっているのではないかと思う。

 

1学校に行っていた信用資本ではない、別の資本を持つ。

手取り早く言うと、「資格だったり、仕事に直結するようなスキルだったり、コミュニケーション能力や愛嬌、性格の良さなど、武器になるものを身につけよう」ということだ。

学校に行っていたという信用がない分、別の何かで稼ごうというわけだ。

 

2学校に行っていた、という信用資本より、本人のスキルなどが優先される世界を選ぶ

学校に行っていたという信用資本で入れる世界ではなく、本人のスキルや実力でどうにかなる世界に進む、というのも戦略だ。

金融や役所といった安定した企業に行くのではなく

IT、WEB、ベンチャー、職人、フリーランスなど本人の実力があれば評価されるような働き方を選ぶ、といった感じだろうか。

 

だいたいこんな戦略に落ち着くのではないだろうか。

 

 

 

結論

 

まあ、学校行かなくても人生そう大きく変わらないけれど

信用資本を稼ぐと言う意味で、行っといた方が無難だよね。

信用資本稼がなくてもなんとかなるけどね!

 

 

 

 

 

 

発達障害者と定型発達者の共通のコミュニュケーションルールを作りたい。(妄想)

そんなことを最近よく思ってる。そして(根拠はないし、直感だが)可能だと思ってる。

 

menhera.jp

camp-fire.jp

 

 

発達障害者は発達障害者だけのコミュニティで過ごすのがいいのではないか?みたいな話を最近聞くことがある。そして上記のように発達障害者のコミュニティや生活圏を作っていこうという動きも出てきている。

 

この動き自体はいいことだと思っている。同じような特性を持ったもの同士で集まることで生きづらさを軽減できると思うし、体験としても発達障害者同士は仲良くなりやすいと思う。

 

ごちゃごちゃした理由を全てかっ飛ばして自分の気持ちを述べると

僕は発達障害者とも、定型発達者とも、どちらの人とも繋がりたいのだ。

どちらにも友達がいるし、どちらにもそれぞれの良さがある。どちらも大切な世界で、だからこそどちらの世界とも繋がりたい。

 

ただ(全てが体感や直感で申し訳ないのだが)

発達障害者が住みやすいなと感じる世界と、定型発達者が住みやすいなと思う世界は違うように感じる。

そして現状では発達障害者が多くのコストや労力を支払って、定型発達者の世界に合わせていると感じている。

 

これを1つにできないかと考えている。

 

 

 

 

どうやるのか

 

次のような手法でできるのではないかと考えている

 

ADHDギークハウスのような、発達障害者の大きなコミュニティを作る

発達障害者の世界の誕生)

発達障害者がどういう世界なら住みやすいのか、という分析をする

それは定型発達者の世界(今の社会)とどう違っているのか、を分析する

両者を比較、分析し、お互いが過ごしやすくなるような場所を見つける

発達障害者と定型発達者、両者が住みやすい世界へ

 

こんな感じでいけるのではないかと考えている。

 

 

「彼女」「彼氏」と呼ばれている関係性を「恋人」「パートナー」と呼び直すことで、異性愛者も同性愛者も少し生きやすい社会を作ることができたように

お互いが生きやすくなるようなルールってどこかにあるのだと思う。

 

 

どうやってそのルールを見つけだすのか

 

単純に僕が大学でそういう方法をかじっていただけなのだけど

社会学の理論に基づいた、会話分析やエスノメソドロジーディスコース分析といった方法でやってみたいと思っている。

すごくざっくばらんに言えば「会話やコミュニケーションから、社会の姿や人々の生活を明らかにしよう」という試みだ。実はこれだけで色々とわかったりする。

 

この手法で

我々は日常どのようにコミュニケーションをとっているか、そこにはどのようなルールがあるか

発達障害者だけのコミュニティでは人々はどのようなコミュニケーションがあり、どのようなルールがあるか

そして

日常の会話の中で、どのように発達障害者は失敗しているのか、会話の中の何が発達障害者を排除しているのか

を明らかにできるのではないかと思う。(もしかしたら既に誰か明らかにしているのかもしれない。)

 

発達障害者が抱える困難は、感覚過敏、多動、衝動性、フラッシュバックなど多くあるが、1番の困難は定型発達者とのコミュニケーションだと思っている。この困難を無くすことに貢献できるんじゃないかなと思っている。

そしてこの取り組みの中から発達障害者と定型発達者のどちらもが生きやすい、コミュニケーションのルール」を生み出せるのではないかと感じている。

 

(多分だけど、定型発達者の会話にはやってはいけないこと非常に多く、失敗するとなんらかのネガティブなレッテルを貼られる構造になっている。(ここで発達障害者は排除される)そして非常に構造化されている。

発達障害者の会話はそもそも構造化自体がされておらず、失敗してもネガティブなレッテルが貼られない構造になっている)

 

 

終わりに

またこれと並行して

日本に住む外国人や外国人コミュニティや文化の研究。それらがどのように地域に根ざしているか。マジョリティとどのように関わっているか

身体障害者やろう者の作ったコミュニティや文化の研究。それらが地域にどのように根ざしているか、マジョリティとどのように関わっているか

なんかも研究してみたいなと思う。

これらは全て、これから生まれる発達障害者だけのコミュニティをどう運営していけばいいか、発達障害者がどのように生きていけばいいかのヒントになるはずだ。

 

 

自分自身、ものすごく飽きっぽく、継続するのが苦手で、いつまで続くかわからないのだが、

やってみたいなと思ったのでここに残しておく。

 

とりあえず先行研究を調べよう。

 

 

 

追記

コミュニケーションの構造はそのまま社会の構造であり、それはそのまま人の思考の構造となるので

発達障害者のやりやすいコミュニケーションの構造を明らかにして、

それが定型発達者のコミュニケーションの構造とどう違うのかを明らかにすることができれば

発達障害者と定型発達者の思考回路がどのようにすれ違っているのかもわかるかもしれない

 

 

 

人を嫌ってもいい理由

ずっと人のことを嫌いになることは、いけないことだと思っていた。

だから人のことを嫌いになることをなるべく避けていたし、「嫌だなあ」と思う人や自分のことが嫌いな人にでも好意を持って接しようとしていた。人に嫌われることは辛いし、痛い。そんな思いを人にさせたくないとも思った。

高校の時人をいじめまくって、授業中に騒いで、風紀を乱しまくってやつでも、自分のことが嫌いなやつでも、僕は相手のことを嫌いにならないように頑張っていた。

 

 

そうして過度までのいい子ちゃんで生きてきた僕だが、最近は思うのだ。

「人を嫌いになってもいい。むしろ幸せに生きるために人を嫌いになることは大事なのではないか」と。

理由を箇条書きで書いていく。

 

1 精神が持たない

まずはこれ。単純に自分が嫌いなやつ、そして自分のことが嫌いなやつのことを好きになろうとするのはしんどすぎる。例えばどうして悪意を持って自分を傷つけようとしてくる人間を好きになれるだろうか。その存在を肯定できるだろうか。不可能に近い。あっちからしても嫌いな奴に好かれて近寄られても鬱陶しだけだし。

自分の精神を健康に保とうと思ったら、「こいつ嫌だな」と思ったやつはできるだけ距離を取った方がいいのだと社会人になってやっとわかった。

 

2 嫌いな奴とは、どのみち関係が長続きしない

嫌いな奴とか、こいつ嫌だなーって感じる奴とは、頑張っても関係が長続きしないし発展しない。相手からしても嫌いなのだから近寄ってきてほしくないので、近づこうとしても上手くいかない。「こいつ嫌だなー」って思っている人間とはどのみちうまい関係が築けないのだ。

どうせいい関係を気づけないのだから、無理に好きになろうとせずにさっさと嫌ってしまって適切な距離を取って、お互いに精神の健康を保った方がいいと思えてきた。

 

 

3 嫌うことで、自分の価値観がはっきりする。

人を嫌いになることで、むしろ自分の好きや価値観が浮かび上がると思っている。

例えば僕は「人をいじめてお金をもらえるなんて最高やん!」なんていう人は心から軽蔑してしまうし、怒ってばかりの人間も嫌い。大学の授業中に喋る人間は嫌いだし、自分のために他人を利用しようとする人間も、セクマイや発達障害など、マイノリティに理解がなかったり差別的なことをいう人も嫌だなあって感情を抱いてしまう。嫌いな人は他にも沢山いるし、とりあえず無意味に人を傷つけたり悪く言ったりする人間は嫌い。

でもここから、「人を傷つけてお金をもらうのは嫌だ」「穏やかな人間が好き」「大学の授業は静かに真面目に受けたい」「他人を利用したくない。他人に貢献できる人間がかっこいい」「マイノリティに理解がある人間が好き、そうありたい」「人を傷つけたり悪く言ったりしたくない」という価値観が浮かび上がる。人を嫌うことで自分の好きや価値観が浮かび上がってくるのである。

自分の生き方や価値観がはっきりしていくので、(適切に)人を嫌うことは結構必要なんじゃないかと思う

 

4 嫌いな人を見て、自分の行動を改めることができる。

人の振り見て我が振り直せ。って奴ですね。

あいつ嫌だな。と思うとき自然に「じゃあ自分はどうか?」って考えている気がする。で、だいたい相手の嫌いなところは自分にも当てはまってたりする。そうなると自分の行動を改めようと意識するようになる。

これが相手のことを嫌いにならないようにすると、「相手があれでもいいんだから、自分も自分のダメなところを直さなくてもいいやー」ってなる気がするし、自分はそうなる傾向が強かった。勝手に相手のダメなところを許して、自分のダメなところを許されてると思ってしまうところがある。どう生きるかは人の自由だけど、嫌われたくない人に嫌われたり、自分の成りたい姿から遠ざかるのはしんどいので、自分のダメなところを許さないためにも嫌なものは嫌というのは大事だと思う。

ああでも、これが行き過ぎると自分にも他人にも厳しい人が出来上がっていくのかなあと思ったりする。他人のダメなところを見て自分のダメなところを治そうとするように、自分のダメだったところを見て他人のダメなところを治そうとするような。そうはなりたくないな。

 

 

まとめると

精神的に楽

無駄な労力を使わなくていい

自分の価値観がはっきりする

自分の行動を改めることができる

 

ってところでしょうか。適切に他人を嫌うのはいいことではないかと思うのです。

 

個人的にはまず自分の周りを、自分がいいと思う人や自分が好きな人で固めて、それから自分の外側にいる認められない人や嫌いな人を理解しようとすればいいんじゃないかと思う。

嫌いな人や認められない人を自分の周りに置くのは違うし、好きになるように努力するのも不毛な気がする。

 

関東か、関西か

引っ越しをしようと思っている。
 
 
今いる場所で生きるのがどうしてもしんどくて(昔いじめられてた、良くも悪くも閉鎖的で排他的な村社会、最新の情報や流行が入ってこない。価値観、選択肢の幅が狭い、発達障害への支援がとても薄い)
別の場所に引っ越そうかと決めた。
 
そして自分のことを顧みた結果(地方、田舎は好きだけど飽きてしまう。新しい刺激が好き。人間的に色々アレ。いろんな人との出会いが欲しい、あちこちに旅がしたい。最新の知識が欲しい等)
関東か、関西か、まで絞れてきた。
 
 
ただ、ここからがすごく難しい。関西か、関東か、なかなか決めきれない。
もうぶっちゃけ仕事がある方へ行こうかとか、その時の直感で決めようかとか考えていたりする。
 
でも自分の性格上、最後の最後まで考え尽くさないと納得できないので、ここで色々考えてみようと思う。
 
 
 
関東と関西、二つとも好きなのだけど何がいいか?
 
 
関西は何がいいかというと、まず自分の好きなところが身近にあるところが大きい。
「好きな場所はどこか?」と言われると「瀬戸内海と京都」と即答する。
 
瀬戸内は大学の時のとても好きになった。四国に行ったときこんなに綺麗な海が日本にあるのか!と感動したし、瀬戸内に沈む夕日は日本で一番綺麗なんじゃないかと個人的には思っている。また瀬戸内芸術祭のようにアートを大切にする文化があってそれがとてもいいと思った。
京都は昔から憧れていた町。お寺や神社が好きなのもあるし、京都を包み込む雅な空気や時間がとても好き。あそこにはほんと不思議な何かがあると思う。
 
瀬戸内と京都。共通していることは自然と人が高度に調和した美しさがあるということだと思う。
自分もそんな雰囲気や精神を持ちたいし、そんな環境で生活していきたいと思う。静かで力強い、内側から自分を熱くする、変えていくような美しさ。これは東京にはないものだと思うし、ある種絶対的なものだと思う。
この2つの地域ともっと縁深くなりたいし、ここがあれば1人でも楽しめそうだなあって思った。
 
他にも異文化が混じり合い、気品を漂わせる神戸や人情や人間の清濁混ざった大阪も好き。
あと「人生に疲れたら四国に行く」と決めてあるので、四国にすぐ行けるのもポイントが高い。四国も移住考えたほど好き。
さらに家賃や税金、物価が安いのがいいね。モノにあまりこだわりがない方だから助かる。
 
懸念点としては、大学時代に色々やらかしてしまったこと。病んでて多方面に迷惑をかけたのでそれが何らかの形で将来に返ってこないか心配だったりする。人がとても多いのでなんとかなるかもだけど。
 
まとめると人情や自然との調和、そして地域のつながり。それらがありながらも都市として多くの人や情報が行き交う関西ってすごくいいなと思ってる。
 
 
 
では関東はどうか
 
関東の魅力は、何と言っても人や情報、仕事や価値観などの選択肢の多さだと思う。
何かの記事に「東京は楽しい!毎日新しい刺激や出会いがある。なんでもあって、何にでもなれる気がする」というコメントがあったのだが、まさにその通りだと思う。
関東にはなんでもある。文化、ファッション、芸術、学問、ビジネス、政治、テクノロジー、あらゆるものの頂点や最先端が東京にあって、それらに触れるチャンスが極めて大きい。ネットを見ていても「面白そうだなあ」と感じるものはみんな関東だ。
また東京や横浜の人工的な街並みはとても好きだしわくわくする。どこに行っても人やお店があって賑わっている。昔テレビの中にあった光景がそのままそこにあってそれが楽しい。
とにかく刺激にあふれていて、活気がある。
 
人や仕事は単純計算で大阪の1.5倍はあるし、面白そうな人、活動という意味では関西の倍はいるんじゃないかと思う。価値観も生き方も多様で、どんな人にも居場所があるのが関東じゃないかとも。
そんな場所に一度は住んでみたい。
あと発達障害とか、そういうものの支援がいちばん進んでいるのもここ東京だと思う。
 
懸念点としては、多くの友達が「東京は住む場所じゃない」と言っていることだ。
満員電車、高い家賃や物価。そういうものがきついらしい。確かに疲れそうな場所だなあと思うし、他人と自分を比較して色々としんどくなりそうではある。そういや友達に「お前は自然がないと生きていけないから都会にずっといると干からびそう」って言われたっけ。
刺激や成長、キャリアを最優先に考えるのならあの街はいいのかもしれない。しかしあの街で僕は駆け上がるんだ!みたいな気持ちもないし、どちらかというとまったりのんびり暮らしていたくて、そのペースのできる範囲でいろんな刺激を受けたいって感じだし。
 
そして人工的で、自然がない。人工的なのはすごく楽しいしそれは魅力なのだけど、自然と人間の調和がないのが残念だなあと感じる。
 
 
 
まとめると
 
瀬戸内や京都の近くに住みたいし縁深くなりたい
自然と人間の調和した美しさが欲しい
アートや文化を大事にしたい
でも人との出会いや最先端の刺激が欲しいし、その中でいろんな学びを得たい
 
って感じなので
 
 
好きな場所がある関西に住んで、刺激や学びをもらいにたまに東京に行く。
くらいがちょうどいいのかもしれないと思った。
 
 
東京への憧れを消すために、タイミング見て東京に長期滞在してみるのもありかなあ。18切符とか使ってさ。
 
仕事が決まっていないので、何を言っても机上の空論なのだけど。
転職活動したり、人生考える上で大事なことなので、ここにまとめとく。

大学がいろんな意味ですごい奴ばっかだった話

自分はそこそこすごい人間だと思っていた。

勉強はそれなりにできるし、高校辞めて現役で大学に入学して地元で「奇跡だ」「あいつやべえ」みたいな扱いされて自分は中々すごい人間なんじゃないかと思っていた。

 

しかし、それは違った。

世の中には、というか大学や社会には、僕なんかよりもはるかにすごい奴、とんでもない奴らがたくさんいた。

 

忘備録として、書いておきたい。

世の中には、やべえ奴らがたくさんいるのだと。

そして、結構どんな生き方でもありなのだと。

 

 

 

 

大学で出会ったすごい奴ら

 

○ずば抜けて優秀な人たち

「トイック900点越え余裕。950点からが本番。」

「ドイツ、イギリス、グアム、あちこちに海外旅行、留学行ってきたグローバル人材」

「超大手企業のインターンで優勝して100万円もらう。そのままシリコンバレーだかどっかに連れて行ってもらう」

「普通に部活して普通に勉強して普通に阪大入った。それが普通だと思ってたしそのまま外資コンサルにでも行くのが普通だと思っていた」

外資系メーカーなんかに就職しちゃう」

「営業のインターンして学生にして5000万円の利益を上げる」

「日本の名だたる大企業に片っ端から内定もらって全部蹴ってフリーランスになった」

「株で自分が遊ぶ金くらいは稼ぎ切った」

「真面目にコツコツ勉強して、超安定超大手企業に内定もらって勤める」

「スポーツ全国大会優勝」

 

○自分の道を突き進む人たち

「柔道日本一、柔道のために大学を退学し、東南アジアで修行」

「チャリで日本一周した」

「大学休学して世界一周、紛争地帯とかいろいろ回る」

「大学を卒業後、音楽の道へ」

「大学を中退して、音楽の道へ」

「大学を休学してその道のスペシャリストの元で2年間働く、その後大学院で自分のやりたいことの研究をする」

「学生にして巨大NPOの幹部」

「東北の被災地ボランティアに全力を注いで、被災地から個人名で表彰される」

「バイトして金貯めて、夢のために専門学校へ。夢が叶わなかった時のために大学にもダブルスクールで通う」

「大学に通いながらバーを経営」

性的少数者の居場所作りの活動を行い、啓発活動にも取り組んでる」

 

○いろんな環境、境遇を生きる人たち

「親が会社の社長」

「金持ちでめっちゃ美人でめっちゃ性格良い、二次元から出て来たようなお嬢様」

「カナダに留学してから大学来た」

生活保護家庭で生まれ虐待されながらも勉強して大学まできた」

「高校までヤンキー、そっから250万貯めて大学へ、そのまま広告代理店大手就職」

「大学で病んで辞めて通信制大学に転学、そこで勉強して自分のなりたいものへ」

「15歳で家出して、違法風俗で働いてなんとかサバイブしてきた。夢を叶えるために今も風俗で金貯めている。」

「学費や生活費みんなキャバクラで働いて稼いで、大学に通ってる」

「中学卒業後家出してホームレスになり、そこから大学に来る」

「7年間引きこもってたけど大学に来た」

「大学入って一度やめて引きこもって、また大学に入り直した」

村八分にされたり親から性的虐待受けたりして、自分の存在意義に悩みながらも自分にしかできないことを考えて、前向きに生きてる」

「20歳まで生きれるかどうかわからないような重度の障害を持って生まれて、えぐい差別といじめを受けて大学にきたけど、悩みながら働いて、前に進んで歩いてる」 

 

…思いつく限り色々書いてみたが、いかがだろうか。いろんな人がいるなーと思いません?

これはまだまだ僕の知ってる範囲内で、広報誌とかニュースとかみてる限りもっともっといろんな人がいるんだと思う。他大学とかに目を向けてみると同い年の人が起業してたり、何十億も稼いでたり、日本のあちこちを自分の足で歩いて旅してたり、もっとすごい人がいっぱいいる。

 

 

どんな境遇でも生きていいし、自分らしく生きれたらそれはかっこいいのだと思う。

 

でもこれだけでも少しわかると思う。

世界には、すごい人たちがいっぱいいるんだということと、

人生に正解なんてないんだってこと。

 

田舎の高校でそこそこ頭良くって、学校行ってなかったことがすごいコンプレックスで、人生終わった死のうくらいに思ってて、高校辞めたけど大学に入学した程度のエピソードが自分の持つ1番すごい話で、人間の価値を図るモノサシが「偏差値」と「部活」しかない、

そんなちっさい自分にとって、数々の出会いは本当に衝撃だった。

 

世界には、自分のモノサシの上限をはるかに超えたとんでもない人がたくさんいる。

自分のモノサシにないすごさ、強さを持っている人が沢山いる。

世間のモノサシや常識ではなく、自分の信じる道を進む人たちがいる

そして、いろんな境遇で生まれて、それでも生きている人が沢山いる。

 

 

世間的には、というか自分の中では「いい大学出ていい会社入ってこそ人生」みたいなものが根強く残ってて、それを中心とした価値判断をしてしまうのだけれど

多分どんな不幸な境遇でも、世間や自分のモノサシからずれた生き方することになっても、捻くれずに前を向いて自分の人生を歩けたら、

それはかっこいい生き方なのだと思う。

 

そういうことを学んだ

 

 

 

今生きづらい人は、大学に行ってみたらいいのかもしれないし、

大学を卒業した人たちは、大学を思い出してみたらいいのかもしれない。

あそこには、想像を超えたような人や出会いが沢山あったはずだ。

そういう出会いやそういう人と同じ場所にいた、という事実が自分を変えていくこともあるのかなと思う。

 

以上、忘備録でした。

 

 

不登校という言葉がそんなに好きじゃないし使いたくない。

不登校とか登校拒否とか、実はそういう言葉をあまり使いたくなくなった。

ただ一般的に多く使われているのは不登校という言葉なのと、不登校.comの語感がいいという理由でブログのタイトルにしている。

 

 

不登校とか登校拒否とかそういう言葉って、やはりネガティブなイメージが付きまとっている。怠けてるとか、甘えてるとか、弱いとか、コミュニケーションが苦手とか、病んでるとか、将来引きこもりになってしまうとか。そういうの。

不登校という言葉によって、学校に行っていた人は学校に行かなかった人たちに対してそのようなネガティブな目線を向けてしまうし、学校に行かなかった人たちは自分たちを不登校というネガティブな存在だと定義してしまって落ち込んでしまう。そんな現状があると思う。

 

 

学校に籍を置いているのに、学校に行かない人には様々な理由がある。

 

めんどくさい。お金がない。病気で休まないといけない。メンタルがしんどくなってしまった。いじめられて学校に行けない。発達障害や人と違ったところがあって学校にどうしても馴染めない。疲れ果ててしまった。

自分から学校に行かないことを選択した人も、本当は学校に行きたいけど学校側に課題があって行けない状態にある人も、自分の力ではどうしようもなくて学校にいけなくなってしまった人も、学校に行かないという行為が必要な人もいる。

そういう人たちをネガティブなイメージを持つ言葉で一括りにしてしまうのはどうなんだろう?何か別の言い方や括り方はないのだろうか。

 

学校に行っていない人には、いろんな人がいる。いろんな事情、思いを抱えた人がいる。学校に行っている人に、いろんな人がいるように。

そりゃあ中には「それはどうなの?」って人もいるけれど、それは学校行ってる人の中にもいるだろう?

そう思って、不登校とか登校拒否とか、そういう言葉に当てはまる人のことをただ「学校に行ってない人」と捉えたらどうかと考えている。ポジティブな意味もネガティブな意味もなく、ただ「学校に行っていない人」。

 

学校に行っている人と、学校に行っていない人は人体の構造的にも、精神的にも、本来何の違いはないはずだ。ただ、この社会の都合として学校に行っていないことは悪いこととされている。そして学校に行っていない人にはネガティブなレッテルが貼られ、時には偏見の目で見られ、時には差別される。そのネガティブさが不登校という言葉から醸し出されるイメージに現れていると思う。

だから不登校という言葉に違和感を覚えたり、使いたくなくなったのだと思う。現実はそこに(なんらかの事情もあって)学校に行っていない人がいるだけだ。

 

このブログの目的の1つとして、「学校に行っている人と、学校に行っていない人が共に生きる社会を考える」というものがある。そのような社会になるためには学校に行っている人も学校に行っていない人もどちらも肯定される社会であるべきだと考えている。しかし現状として、学校に行っている人が正しく、学校に行っていない人は間違っているという状態がこの社会には存在する。

不登校ではなく「いい悪いは別として、ただ学校に行っていない人」と捉える。わずかなことかもしれないが、このような視点、考え方はそのような状況を打開する1つの切り口になるんじゃないかと思ったりしている。