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卒論を通して学んだ3つのこと

 

僕の人生で頑張ったこと、そして分かりやすい結果が出ているという意味で人に語りやすいのが、卒論だ。

 

卒論をそんな頑張った人ってそんないないかもしれない。学生時代無駄にしてない?と思われるかもしれない。でも、本当にこれだけは頑張ってよかったと思うし、頑張った分得るものは多かった。(多分何でもそうなんだろう。何でも極めれば得るものはある)

僕が卒論から学んだことを、3つ書いてみる。

 

 

 

 

1 1人には、限界がある。

 

卒論書き終わった後、真っ先に「僕の限界はここなんだ」と思った。

365日24時間自分のテーマについて考えてた。部屋は大量の社会学の本で埋め尽くされていたし、締め切り一週間前はカップ麺とお菓子を買い込んで部屋にこもっていた。たまに外に出たと思えばブツブツと社会学の理論を呟きながら散歩をし、Twitterは常に社会学のことでいっぱいだった。教室の黒板2枚に僕1人の文字でいっぱいになるまで理論を書いたし、ゼミで集まった時には同期に脈絡なく社会学の質問ぶつけたりして語り出したりしてた(ほんまにごめんなさい)

はっきり言って、気が狂っていた。それくらいやった。書き終わったとき、「僕の限界はここなんだ!こんな何も知らない小さな存在が僕なんだ!」って絶望した。

大学に認められて優秀賞を頂いたのだけど、「どうやったら最優秀賞を取れたのだろう?最優秀賞とる人ってどんな人なんだろう?」と思った。あれ以上、どう頑張ればよかったのか。

 

僕の答えの一つは、「誰かと協力すること」だ。

僕1人の限界はここだった。でも、例えば誰かと教えあったり、誰かに相談したり、勉強サークルに入ったりしてたら、もっと違う結果が出てたんじゃないか?と思う。

僕は自分の本心を誰にも言えなくて、誰とも相談せずに研究してしまった。思えばいつでもそうだった。1人で悩んで、抱えて、めちゃくちゃな努力をして解決しようとしていた。そして病んだり体壊して来た。もし誰かと関係を築いて、協力して行うことができていたら、僕はもっと楽に、体や心に負担をかけず上に行けたのではないか。

他にも勉強法とか効率とか体調管理とか色々要因はあるけど、一番はこれだと思う。1人でできないこと、越えられない壁は、誰かと一緒に乗り越えたらいいのだ。社会の存在意義ってそれだと思うし。

なお、「苦手だけど頑張って人と繋がろう!」と考えて安易に行動した僕は、完璧に距離感わかってないこじらせた奴になって新しい環境で爆死しました。誰か僕に人との繋がり方と一般常識を教えてください。後、自分のメンタルだったり性格だったり振る舞いだったりは解決しような。

 

 

2 研究は終わりのない壮大なプロセス

 

僕の限界はここだと思うと同時に、「社会学の0.00000000001%すら知らない」と感じた。社会学という学問領域ですらそうなのだから、僕は世界のことを何も知らないのだと思う。やってもやっても出てくるのは疑問点ばかりで、何も知らないことを思い知らされた。一生かけても、僕が知ることができるものは限られていると悟った。研究には、多分終わりがないのだ。というか終わりがどうやっても見えないのだ。

 

研究とはわかりやすく言うと、リレーのようなものだと思う。僕が読んで来たあらゆる本は、先人達が膨大な時間と命をかけて解き明かした知識の集合体だ。僕達は先人達が解き明かした知識を元に、先人達が説き明かせなかった物事を研究する。そしてそれを次の世代に託し、彼らが僕らができなかったことを解明していく。バトンを渡すように、知識は過去から未来へと受け継がれていく。そうやって、何世代もかけて世界の仕組みを解明していく。そうやって1人ではできないこと、知ることができないことを知っていく。

その壮大なプロセスが研究であり、それには多分終わりはないのだ。わからないことがあまりにも多すぎるのだから。

 

僕はこの経験を通して、それまで全く興味のなかった歴史を勉強しようと思った。社会、政治、人間、あらゆることは皆過去の積み重ねの上に今がある。一から自分で学ぶよりも、過去から学んだ方が効率がいいと気づいた。

そして、僕が全てをやる必要はなくて(できないし)、僕の後に誰かが続いてくれて、僕ができなかったことをしてくれたらそれでいいんだなって、素直に思えた。

 

 

 

3 いつかは真実にたどり着ける。

 

「そうだな・・・ わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ・・・近道した時『真実』を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?真実へ向かっているわけだからな・・・違うかい?」

ジョジョの奇妙な冒険第5部より

 

ジョジョの中で一番好きな言葉なんだけど、これはマジだと思ってる。

 

僕は社会学の中でも教育や学校の研究をしていた。詳細は割愛するが、そこに自分がどうしても知りたいこと、知らないと生きていけない何かがあると感じたからだ。何が知りたいかはわからなかったが、そう直感したからこそ文転してまで社会学部に入学したし、気が狂うまで必死で研究したのだと思う。

思い返せば全然平坦じゃなかった。研究する分野や専門を何度も変えて、大量の本を読んで、勉強方法も何もわからずがむしゃらに論文を書いて、挑戦しては失敗して、何でこんなことに学生生活捧げてるんだろう、もうこのテーマを研究するのはやめようって泣いて、苦しくて泣いて、先輩や教授と喧嘩して、途中で何度も何度も人に迷惑をかけた。無様だし、カッコ悪かった。後悔と反省点なら死ぬほどある。それでも「何かがある」という直感の元、突き進んだ。しかし、僕は自分の納得のいく答えを見つけることができなかった。それは卒業論文を書き終えた時ですら、そうだった。

だが、僕の研究はそこで終わりではなかった。社会人になり時が経つにつれ考えが整理されて、卒論のその先に考えを進めることができた。また新たに得た知識や経験を元にああも考えることができる、こうも考えることができると、自分の議論をさらに前に進めることができた。

卒論を書き終えてから1年ほど立った時、僕は自分の知りたいものにたどり着くことができた。その答えにたどり着いた時「ああ、これが自分の知りたいことだったのだな」と理解することができた。「知りたい何かがある」と思い始めて、6年もの歳月が過ぎていた。

 

 

辿りつこうという意志さえあれば、いつかは真実、自分の納得できる何かにたどり着ける。

だから僕は、心のどこかで生きることを諦めていないし、諦めたくないのだろう。

 

 

 

まとめてみて

卒業論文から大事なこと、たくさん学んでいるなと気づいた。

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、後悔、いろんなことがあるけど、僕は歩んでいきたい。

たどり着きたい何か、諦めたくない何かがあると感じるから。

 

不登校から見る現代社会。常識の崩壊と新たな選択肢。(途中で力尽きた)

不登校は、時折本人の主体的な選択として肯定されることがある。

 

これは歴史を紐解けば、何らかの事情により学校に行かなくなった(行けなくなった)ことで、社会や親から否定され続け、傷つけられた子ども達を守るための言説である。「僕たちは学校に行けなくなったダメな人間ではなく、いじめがあったり画一的な教育を推し進める学校には行かない方が得であると判断して、行かないことを選択したんだ」と自分たちを解釈し直し、発信することで、不登校児の自尊心を守ろうとしたのである。そしてしばしば、上記の言説を通すために、学校やそれに基づく現代社会が否定され、不登校は学校に行くよりもより良い選択肢として主張された。

 

昨今、学校に行かないことは「選択肢としてアリだ」という風潮が強まっている。不登校数は毎年増加しているし、「学校に行くことよりも、本人の幸せや選択を優先してあげて」というブログや記事もたくさん見るようになった。だがこれは、学校に行くことよりも行かないことの方が良いことが多くなったから選択肢として認められたのでは無い。むしろ逆である。社会の変化の中で、学校に行った方がいい根拠がなくなりつつあり、不登校を否定できなくなっているからこそ、起こっている現象なのである。

これまでの当たり前、常識の信頼性が薄れてきているから、当たり前では無いことを否定できない。

このようなことが、社会のあちこちで起こってきている。

 

 

このことは身近な会話でも確認できる。

最近意見を述べる時、特に相手や社会に対して言いにくいことを述べる際に「私は、こう思う」と言う人、その述べる人に対して「あなたがそう思うんやったら、それでいいんじゃない?」と言う人がすごい増えたと感じる。このような会話が増えたのは、多様な価値観が認められるようになったからとか、個人が自分の考えを主張することを求められるようになったとか、そういうことだけではないと思う。これまでの常識や社会が信頼できなくなってきたから、みんな自分の考えを述べるしかないし、相手もそう答えるしかないのではないだろうか。

 

先ほどの不登校のことを例に出して考える。例えば今

「私学校に行かない。朝起きれないし家で勉強した方が集中できるし成績伸びる」

という子どもがいたとする。おそらく昔なら「甘えるな!」「学校に行かないとちゃんとした大人になれない!」と言われたんじゃ無いだろうか。しかし、学校に真面目に通って就職しても経済的に安定できなかったり、居場所がなくなったりすることが多々ある現代ではどうだろう。学校に行っても幸せになれる保証がない現代社会ではどうだろう。選択肢として認められることがいくらかはあり得ると思うし、否定もしにくいのではないだろうか。

 

これは少なくとも教育の他に職業や家族、思想の領域でも起こっていると思う。フリーランスとか自由な生き方とか、新しい家族の形とか、様々な選択肢が肯定され、否定できなくなる。

 

 

 

(疲れてきたのでこの辺から適当になります。)

 

 

 

ただこれは、肯定され、否定できなくなるだけであって、新しく生まれる選択肢が「良い」わけではないと思ってる。今の段階だと今までどおりの常識で生きた方が安定的に幸せになれる可能性は高いと思う。今までどおりの常識で生きられない人が多いから、新しい選択肢が必要とされているのだけど。「私らしく」がその典型だと思う。私らしく生きることが良いかはわからない。

依然として不登校児の大多数は厳しい状況に置かれているしね。否定されなくなったからといって安易にそういう選択をして、後悔しても遅いよって話。

 

 

これからボコボコと新しい選択肢が生まれ、バンバン淘汰されていくのでしょう。個人的には自由に生きるとか、私らしく生きるとかいうのは近いうちにブームが去る気がする。その中で労働、教育、家族、思想の新しいパターンが構成されて、みんなに共有されるのだろうな。それがどんなパターンになるのかはまだはっきりと言えないし、そのパターンが自分にとって良いのかはわからない。

歴史を振り返れば(今は600年前の日本や、500年前のイギリスの大航海時代と酷似しているらしい)ヒントは得られるのだろうが、まだまだ手をつけられていない

この混沌とした正解のない世界で、自分にとっての良いを探して生きたいな。

 

 

 

自分の発達特性を真面目に考えてみる

僕×〇〇で文章を書いてみようと思った

 

僕×移住

僕×社会学

僕×HSP(人一倍敏感な人)

僕×恋愛

僕×旅

 

色々書いてみたいことはあるけれど、

今圧倒的に書かないといけないことは

 

 

 

 

僕×発達障害

だと思った。

 

 

 

最初に言っておくと、僕は正確には発達障害者ではない。

病院で発達に関する検査を受けたのだが「発達にばらつきはあるけど、障害の可能性は低いかなあ」と言われた。

ただ、得意なことと苦手なことが激しく、生きづらい。どれだけ努力してもできないことはできない。一方でできることも確かにある。それをちゃんと把握したいなあと思った。

正直、認めたくなかった。発達障害の診断出てないんだし、頑張ればなんとかなるかも!と思って努力した。毎日頭が痛くなるほど頑張って、血を滲むような努力した結果「これほんまに無理なんだな」ってわかった。しんど過ぎる。

しんどいから、ちゃんと自分のことを知ろう、受け入れよう。人と違っても、自分にあった社会とのつながり方を模索しよう。そう考えた。

 

 

 

自分の発達凸凹っぽいところは、以下のような感じ。

 

・あれ、それ、これ、〇〇(単語)みたいに一言で言われるのがすごい苦手。意味がわかるまでの数秒間固まってしまう。

・だから毎回(こういう意味ですか?)って確認するけど、時間がない時とかそれがうざかったりもするみたい。

・適当にしといて、いいようにしといて、上手くやっといて、みたいな曖昧な指示が飛んでもなく苦手。相手に明確なルールを決めてもらうか、自分で勝手にルールを決めて対応してる。柔軟性がないと言われることもある。

・同じように空気を読むのも苦手。頭の中でこういう時はこう動くってルールが設定してある。こういう場合どう動いたらいいか?をよく確認してしまうからそれもうざいみたい。ルールにない動きを実行するのにはすごく不安が伴う。ルールを変えることで行動を変えることができる。

・自分が決めたルールに対して、ああしろこうしろ、柔軟に変えてゆけって次々言われるとすっごいしんどい。一回ずつ、優しく言ってもらえると対応は十分に可能。

 

・無秩序だったり、無意味に見えるものが苦手

・未知のもの、意味づけが難しいもの、想像力を働かせる必要があるものに上手く対応できない。だから今までに遭遇しなかった場面や新しい環境などに遭遇すると固まってしまう。

・一方で一度学習したもの、頭の中でパターン、ルール化できたものに関しては上手く対応できる。だから仕事でも人間関係でもなんでも、パターン、ルールが掴めるまでほとんど何もできない。

・部活でも勉強でもなんでもそう。最初は全然ダメで、ある時期から急速に伸びる。

・アドリブが無理。固まる。前もってルールやパターンがあることなら可能。

 

 

・できないって言われることがものすごく怖い(だからルールに固執する)

・未知の出来事、新しい人との会話に関して、〜すると〜なるという予想が非常に苦手。(だからルールに)

・相手が怒ってそうとか、自分のこと好きそう、嫌いそうってのはよくわかるけど、どうしたらいいのかがわからない。

・だから怒ってる相手に対応を間違えて余計怒られたり、嫌われたりすることが多い。

一生懸命相手のこと考えて喋っても「お前は相手が何言われたら喜ぶかを常に考えろ!」って言われる。常に考えてるのに。。

・嫌われた時に(何か相手のためになることをする!相手に話しかけて近く!)しかコマンドを持っていないのがあかんのかも。合わない人はバッサリ距離をとるくらいでええのかも。

・相手の気持ちや立場を想像するのに時間と体力がものすごくかかる(鍛えられる気はする)

・距離感を図るのが苦手(鍛えられる気はする)

・最近は与えることを意識しすぎて相手にウザがられる。

・パターン、ルール化されていないものが苦手なこともあり、初対面の人や初めての環境での会話が非常に苦手。何も話せないか、パニクってめっちゃテンション高い。

 

・3人以上の会話めっちゃ苦手

・飲み会とか苦手

・冗談わからないことある。

 

・何もないところでこける。

・大きい音がすごく苦手

・不注意、忘れ物が多い

・肌がとても敏感。

 

・不安、プレッシャーが強い環境、人に陰口言いそうな人の前、キツそうな人の前、先輩だと上記の特性がめちゃくちゃ強まる。定型的なことしか喋れなくなるし、口調もロボットみたいになる。顔もこわばる。そういう人との飲み会なんて一言も喋れない。挨拶もできない。怖い。

・逆に優しそうな人、安心できる環境、昔からの友達の前だとそういう特性が弱まる。コミュ力高いやん!って言われることも多々ある。アドリブや未知のものへの対処も普通にできる。ただし調子乗りすぎて失言が多くなる。

 

 

 

 

・いろんなアイデアが常に頭の中で動き回ってる。

・いろんな悪い考えも常に頭の中で動き回ってる。

・興味が向いたことにしか考えられない

・興味のないもの、必要のないものは覚えるの苦手(小学校の時は、テストの点数理科と数学が満点で、国語と社会が一桁代。中学は全教科満点に近かった(覚える必要性が出たから))

・規則性を見破る、覚えるのは得意みたい。

・一定の法則やルールに従って動いているものは、それさえ見破ればたやすく行える。他の人と比べてもすごく早いらしい。

・興味が向いたものならとことんやれる

・記憶力はいいみたい。保育園の時のこととか覚えてる。

・今までの経験したこと、ルール、パターンを組み合わせて、新しい発想をしたり、未知のものに対応したりすることはできる。外から見たらすごいこともあるみたい。

・数学の方程式、プログラミングなど、手先を使う仕事×頭脳労働×課題設定→問題解決的なもの、でフローに入れる。

・数学、勉強、研究、プログラミング、行動力、実行力、計画力、チャレンジ精神、改善力には定評がある。

・職場で褒められるのは、Excel、データ入力の正確さと速さ。難しいことを考えること、アイデアを色々出すこと。

・全く褒められないのは、コミュニケーション全般。

 

・常識的な生活スキル、知識が欠けている(そんなんも知らんの?って言われること多いし、否定的なこと言われるのが怖いから知ったかしちゃう)

・ドラマとか流行りの音楽とか、全く興味ない。

・同じ音楽を繰り返し何十回も聞く。

・滑舌めっちゃ悪い

・手先めっちゃ不器用

・空中に絵を描いて物事を考えたり、手遊びが激しい。行儀悪いって言われる。

 

 

 

 

ざっとこんな感じ。

疲れた

 

嫌われている人に好かれようとして話しかけてさらに嫌われたとか

曖昧な指示を理解できなくて確認したらウザがられたとか

困ってること(人間関係)の具体例を書こうと思ったけど、疲れた。

 

書いてみると本当に得意不得意がはっきりしてるなあと思うし、短所を長所でカバーしてるところが多いなあって感じる。

 

明日から、ここから具体的な解決策とか、職場でのやり過ごし方とか考えてみようと思う。

ほとんど答え出ているような気がするけど。

社会を一つのモデルで表すことは可能か。

社会の仕組みを一つのモデルで表すのは無理って、それ諦めじゃないの?
 
 
理系クラスタの友人にこんなことを言われた。
 
 
理系クラスタの友人に社会学を話しても、だいたいよくわかってもらえない。
もちろん、僕の勉強不足が大きいし、コミュニケーション能力不足も大きい。
 
しかし、上記の言葉だけがすっごく頭に残った。モヤモヤした。
ついでに言うなら、僕の説明不足や勉強不足で「社会学ってしょうもない学問なんだなー」って思われてたりしたら、それはすっごい悔しい。
社会学は歴史は浅いとはいえ、面白いし、物理学や哲学に負けないほど価値のある学問領域だと思う。それをちゃんとわかってもらいたい。わかる気がないのなら説明しても無駄なんだけど、説明できる言葉を持ちたい。
 
このテーマを扱うには僕は勉強不足だと思う。僕のやってきた社会学はすべての社会に普遍的に当てはまる現象、構造を見つけることではないからだ。でも、今の時点での自分の見解をちゃんと整理しときたい。
 
 
 
 
社会学の大きな特徴は、対象と観察者が切り離されていないことにある。
物理学や工学であれば、対象と観察者は切り離されて考察されているだろう。それはつまり、対象の外から物事を考察することができると言うことだ。
社会の場合はそれとは違う。社会と人間は密接に関係しており、人間の行動によって社会が構築されて、その社会が人間にまた影響を与えている。人間と社会は切り離せないものであるのだ。故に社会を観察、考察しようとする際には、社会の内側から、自分の見えている、知っている範囲で考察するしかないのである。そうすると、そもそも社会の全体像を掴むことなど可能なのだろうか。それは例えるならば日本と言う国の中から、地球のすべての地形を把握するようなものだ。
 
ここで「ある人が日本を、ある人がアメリカを、ある人が中国を調べて、みたいにして分担して調べて、それらすべてを組み合わせれば社会の形がわかるのではないか」という意見が出てくることが予測される。しかしそれらが全ての社会だとどうして言えようか。見過ごしているだけで別の社会があるかもしれない。結局はどこまで広い範囲で調べ、その上でモデルを構築したとしても、一定の前提と範囲ではこのようなことが言える、以上のことは言えず、全ての社会を説明できるとは言えないのである。
 
結論を言えば、どこまで言っても、「自分たちが知っている社会では」という前提がつきまとう。それなのに全ての社会でこのことが当てはまる!なんていうことは傲慢だし、そう考えると全ての社会を説明しているモデルを作るなんてことは不可能なんじゃないかと思えるんだ。
 
 
雑記
そもそも社会学において使われるモデルって、物理法則のような絶対的なものではなくて、考察の材料として使われる、程度のものな気がする。モデルや理論通りにいかなくてなんぼ。なところあるし。
 
一つのモデルで社会の仕組みはある程度説明できるかも。
宗教社会学の儀礼モデルで、意図的に集まった集団がなぜまとまっているかは説明できるような気がするし。
ただそのモデルだけでは絶対に見えない側面があると思う。
 
こう言う場合にはこう言う社会ができる、こう言う社会現象ではこう言うパターンがあるとか、大まかなパターンはある程度あると思う。ただそれをモデルにしても、モデル通りに物事が動くことはないと思うし、それは誤差とか間違いでなないのだと思う。その社会では、そういうことが実際に起こってるのだからそれが正しい。
そしてモデルの社会が絶対に正しいなんて誰にも言えないのだから(もしそれが言えるとしたら、そいつは神様かよって話になる。このように動く社会がスタンダードだって言っているようなものなんだから。どの社会がスタンダードかを決めるほど、社会学者は偉いのかって話になる。)そう考えたら、やっぱモデルの信用性自体、物理法則ほど強くないのかも。